What Inspired Me

unknown music lover from Japan. This blog wrote in both Japanese and English.

概要: アニメーターだけが知る、コマ一枚ずつに命を懸けるような精度。Serphの音楽はまさにそれだ——ドラムパターンがほとんど繰り返されず、ピアノが万華鏡のようにリズムを織り込む、マイクロエディットの塊。miaouは2000年代インストゥルメンタル・ポストロックの全盛期に、世界でも指折りの美しいメロディを書いていたバンドだ。Spangle call Lilli lineは、歌詞の意味よりメロディの輪郭を優先する。三組とも、日本の音楽シーンでほとんど知られてい

日本のインディーシーンには、もっと評価されるべきアーティストがいる。ここでは、自分が何度も聴き返している3組と、その理由を紹介したい。

1. なぜSerphの音楽は「命を懸けた傑作」なのか

アニメーターは知っている。ハイレベルなアニメーションを作ることが、どれほど常軌を逸した難しさを伴うかを。Serphの音楽もまったく同じだ。

質の良いスピーカーで聴くと、音の洪水に浸されているような感覚になる。音の質感は驚くほど複雑に移り変わり、何層にも重なり合いながら一つのトラックを構築していく。あらゆる音が細かく刻まれ、階層的に積み上げられ、まるでコマ撮りアニメーションのようにタイムライン上に配置されている。曲の流れそのものも、その緻密な多層構造によってコントロールされている。

これは、安物のスマホスピーカーでは絶対にたどり着けない世界だ。

Serphはこのような執拗なまでのマイクロエディットに、果てしない時間を費やしている。このスタイルが決して主流になることも、彼を裕福にすることもないと分かった上で、だ。これはまぎれもなく「命を懸けた創作」だと思う。

彼の音楽を聴くなら、まずドラムに注目してほしい。パターンがほとんど繰り返されないことにすぐ気づくはずだ――トラックごとに、絶えず変化し続けている。また、ピアノが速く複雑なアルペジオへとなだれ込み、曲を前へ前へと押し進めながら、全体の上に独自のリズムを織り込んでいく瞬間もある。

身体全体を動かしたくなるようなリズムの組み立て方は本当に見事で、まるで万華鏡のようだ。

まずはここから: Serphの楽曲 「Soda」 は、入門に最適な一曲だ。

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「Soda」が気に入ったなら、同じEPに収録されている次の曲 「Coquettish Bomber」 もきっと好きになるはずだ――個人的には彼の全カタログの中で一番好きな曲。ボーカルサンプルを細かく刻み、それを驚くほど美しいメロディへと変えている。

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彼の音楽はまさに「音になったアニメーション」だ。そして日本のアニメーションはすでに世界中で愛されている。その同じ精神を宿した音楽にも、もっと多くの人に出会ってほしいと思う。

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2. 日本発、ポストロック史上もっとも美しいメロディ

miaouの音楽は、見事なメロディと丁寧に練り上げられた曲展開の上に成り立っている。これが、他の多くのインストゥルメンタル・ポストロックバンドとの決定的な違いだ。彼らの楽曲は、歪んだギターの壁へとじわじわ盛り上げていく典型的な構成ではなく、ノイズではなくメロディが主役を張っている。

日本の音楽シーンの中でさえ、彼らは今も無名に近い存在だ。だが2000年代初頭のインストゥルメンタル・ロックブームを振り返ったとき、あの時代の世界中のバンドの中でも、彼らは間違いなく屈指の美しいメロディ展開を書いていたと言いたい。

ドラムとベースを担当しているのがどちらも女性だという点も気に入っている――彼女たちのようなパワフルな演奏は、ポストロックのリズム隊において女性ではまだまだ珍しく、彼女たちがリズムセクションにもたらしているものは本当に素晴らしい。

ライブ映像を見ると、電子的なプログラミングが極限まで抑えられていることに気づくはずだ――すべてが4人の手によって、その場で演奏されている。特に好きなのは、彼らがステージ上で円になり、互いの音に耳を澄ませながらリズムを完璧に重ね合わせていく瞬間だ。

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そしてこちらも、彼らの素晴らしいライブ映像のもう一本。

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3. 知っておくべき日本のロックバンド

Spangle call Lilli lineの歌詞は、日本語として従来的な意味をなすとは限らない――すべての言葉が、ただメロディに奉仕するために存在している。

数ある日本のロックバンドの中でも、彼らはとびきり優れたメロディの書き手だと思う。彼らの音楽は何よりもまずメロディを中心に組み立てられている。

メンバーたちは美術大学で出会い、それぞれがバンド活動とは別に、デザイナーや写真家としての独立したキャリアも持っている。だからこそ彼らは妥協なく、自分たちが作りたい音楽を自由に作ることができる。同時にそれは、彼らが日本で商業的なメインストリームの成功を収めたことが一度もないということでもある――そしてそれこそが、彼らを特別な存在にしている理由だ。

彼らのライブパフォーマンスは、YouTubeで探してでも見る価値がある。

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声より先に、言葉があった

Natalie Merchant(ナタリー・マーチャント)は1963年、ニューヨーク州ジェームズタウンに生まれた。7歳で両親が離婚し、母親が再婚してニューヨーク州北部のコミューンへ引っ越す。そこで出会った女性たちが、彼女の原点になった。

「私はあの人たちに恋をした」と彼女は語っている。「アーティストたちで、脚を剃らないでいる女性たちで、ひとりで暮らして冬には薪ストーブをたいて、強かった」

テレビのない家で育ち、16歳で高校を辞めてコミュニティカレッジへ進んだ。教室の外で本を読み、フォーク音楽を聴いた——図書館でハリー・スミスの「Anthology of American Folk Music」を手に取ったことが、歌への入口になった。ギターの猛練習ではなく、言葉と読書が先にあった。辺縁に追いやられた人々への眼差しは、このころすでに育ちつつあった。

10,000 Maniacs——バンドの声、自分の言葉

1981年、17歳のNatalieはジェームズタウンのバンドStill Lifeに加入する。やがてそのバンドは10,000 Maniacsと名を変え、Natalieはボーカルと作詞を担った。

10代からすでに、彼女の歌詞は群を抜いていた。歴史の中で忘れられた人々、児童虐待を目撃した傍観者の罪悪感(「What's the Matter Here」)、望まない妊娠(「Eat for Two」)——ポップソングを社会的・歴史的な問題を語る手段として使うスタイルは、キャリアの最初から一貫している。

バンドは1987年から1993年にかけて全盛期を迎え、「In My Tribe」「Blind Man's Zoo」「Our Time in Eden」が全米チャート上位に入った。1993年のMTV Unplugged収録時、彼女たちはBruce SpringsteenとPatti Smithの共作「Because the Night」をカバーした。Natalieの語りかけるような歌声が際立ったこのカバーは、バンド最大のヒット(Billboard Hot 100・11位)となり、Natalieの名を広く知らしめることになる。

しかし同年、Natalieは脱退を発表する。理由は「自分が書いた曲への創作上のコントロールが足りない」こと——巨大化したバンドという組織から抜け出し、シンガーソングライターとして完全に自立することを選んだのだ。

Patti Smithのオリジナル(作曲はブルース・スプリングスティーン) YouTube video

10,000 Maniacsのカバー YouTube video

Tigerlily——完全な自由で書いた声

1995年のソロデビュー作「Tigerlily」は、Natalieが初めて完全な創作の自由を得て書いたアルバムだ。

結果は衝撃的だった。「Carnival」「Wonder」「Jealousy」の3曲が立て続けにBillboard Hot 100のトップ40入りを果たし、アルバムは500万枚以上を売り上げた。この商業的成功はNatalieに単なる名声以上のものをもたらした——レーベルの商業的プレッシャーから自由になり、その後のキャリアで社会活動や芸術的実験に没頭できる財政的・精神的な自立の土台を手に入れたのだ。

なかでも「Wonder」は、表皮水疱症(EB)という難病を持って生まれた双子の女の子たちへの讃歌として書かれた曲だ。Natalieは「曲を書いたとき、誰のことを書いているか自分でもわかっていなかった」と語っており、後にこの双子と深く友人となり、彼女たちが二十代で亡くなるまで寄り添い続けた。その普遍的なメッセージはのちにR.J. PalacioのYA小説「Wonder」の着想源となり、2017年の同名映画エンドクレジットにも使われた。

「Wonder」のヒットは偶然ではない。社会の辺縁に置かれた存在へのまなざし——コミューンの強い女性たちから受け取ったそれが、聴衆の心を打った。メッセージ性と商業的成功を両立させた稀な例として、「Tigerlily」は今もNatalie Merchantのキャリアを象徴するアルバムであり続けている。

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「Wonder」(1995年、Tigerlily収録)。表皮水疱症(EB)を持って生まれた双子の女の子たちへの讃歌として書かれた。その普遍的なメッセージはR.J. Palacioの小説「Wonder」の着想源となり、2017年の同名映画にも使われた。

詩と政治——成熟期の声

ソロ以降のNatalieは、チャートの数字よりも自分の作りたいものへと向かっていく。

2001年の「Motherland」では政治・社会意識が前面に出て、2010年の「Leave Your Sleep」では詩人たちの詩に自ら曲をつけるという異色作に挑んだ。「Tigerlily」の成功が生み出した自由があればこそ、こうした利益度外視の芸術的実験が可能になった。メインストリームからは外れていくが、コリン・メロイ(The Decemberists)やWeyes Bloodといった後の世代の知的なシンガーソングライターたちに、彼女の影響は確かに聴こえる。

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Keep Your Courage(2023年)の「Big Girls」では、ブラックのシンガーAbena Koomson-Davisとのデュエットで、嵐の中でも互いを支え合う女性の連帯を歌い上げた。社会の辺縁に置かれた存在への眼差しは、60歳を越えた今も変わっていない。

「詩と政治——成熟期の声」

2001年の「Motherland」では政治・社会意識が前面に出て、2010年の「Leave Your Sleep」では詩人たちの詩に自ら曲をつけるという異色作に挑んだ。「Tigerlily」の成功が生み出した自由があればこそ、こうした利益度外視の芸術的実験が可能になった。メインストリームからは外れていくが、コリン・メロイ(The Decemberists)やWeyes Bloodといった後の世代の知的なシンガーソングライターたちに、彼女の影響は確かに聴こえる。

アルバムのタイトル曲「Motherland」は、コンクリートが侵食する都市の風景から逃れ、大地に抱かれたいという切実な祈りを歌っている。「祖国よ、私を揺り籠に抱いて、眠らせて、守って」という繰り返しのフレーズは、単なる望郷の歌ではなく、現代社会の疎外感そのものへの問いかけとして響く。この曲は2001年9月11日の直前に完成していた。Natalieは後に「書いたときはずっと皮肉な気持ちで書いていた。でも今は、この曲はノスタルジアと夢の死になった」と語っている。時代の暴力が、曲の意味を書き換えてしまった——それ自体が、彼女の歌詞の持つ射程の広さを物語っている。

🔗 「Motherland」歌詞全文(Genius)

声を失って、声を取り戻した

2019年、NatalieはロンドンのV&Aミュージアムで突然腕にしびれを感じた。帰国後の検査で、日本では指定難病(第69号)に認定されている脊椎の疾患「後縦靭帯骨化症(OPLL)」と診断される。靭帯が骨化して脊髄を圧迫し、最悪の場合は四肢麻痺にいたるこの病気に対して、緊急手術が必要だった。

手術は6時間に及んだ——喉を切開し、声帯を脇へ寄せながら脊椎の骨3本を除去するものだった。目覚めたとき、彼女は歌えなくなっていた。

「パニックに陥った」と彼女は語っている。「もっとたくさんレコードを作っておけばよかったと思った」

10ヶ月間、歌声は戻らなかった。その沈黙の中でパンデミックが世界を覆い、Natalieは詩人Robin Robertsonの詩集と出会い、言葉が再び彼女の喉を震わせた。曲を書き始め、それが「Keep Your Courage」(2023年)として結実する。

かつて彼女をプロデュースしたPeter Asherは「何十年もファンだったが、これが彼女の最高傑作かもしれない」と評した。チャートの順位は「Tigerlily」の全盛期には及ばない。しかし声を失い、取り戻し、60歳で作り上げたこのアルバムには、チャートの数字では測れないものが刻まれている。

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「Keep Your Courage」(2023年)。脊椎手術で声を失った経験とパンデミックの孤独を経て生まれた、9年ぶりの新曲集。

変わらぬまなざし

声は年輪を重ねた。でも歌い方の核心は変わっていない。

語りかけるように歌うスタイル、辺縁に置かれた人々への眼差し、フェミニズムと社会意識を大衆的な音楽に溶かし込む技——それは17歳でジェームズタウンのバンドに加入した日からずっと、彼女の中にあったものだ。

高校を辞め、コミューンの強い女性たちに育てられ、図書館でフォーク音楽と出会った少女が、その後40年以上にわたって世界に語りかけ続けている。あなたにも、そういう「変わらない声」がありますか。

Description: “Classical” is a word I use with quotation marks. The piece I want to talk about doesn't sit comfortably within any genre boundary, which is partly why I love it. This piece is a personal note about one specific work that changed how I listen—not because it was the most technically impressive thing I'd heard, but because it was the first time a piece of music felt less like a composition and more like a physical space I could step inside.

The melody comes back again and again at a furious pace, and tabla-like percussion colors every repetition. I'm not even sure “classical” is the right word for it — but if you only know Michael Nyman through his film scores, you owe it to yourself to hear this.

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This is “The Upside Down Violin: III) Faster Still,” performed live in 1994 by the MichaeMy Favorite Piece of “Classical” Music

The melody comes back again and again at a furious pace, and tabla-like percussion colors every repetition. I'm not even sure “classical” is the right word for it — but if you only know Michael Nyman through his film scores, you owe it to yourself to hear this.

Who Is Michael Nyman?

If you've watched a Peter Greenaway film or Jane Campion's The Piano, you've already heard Nyman's music, even if you didn't know his name. He's a British composer, pianist, and — long before he was famous for soundtracks — a music critic. In fact, it was Nyman who coined the term “minimal music” back in the 1960s, years before he became one of the genre's most recognizable voices himself.

His sound is built on repetition: short melodic and rhythmic cells that loop, layer, and shift incrementally, building tension and momentum out of small variations rather than grand romantic gestures. Through the late 1970s and 1980s, this style became inseparable from his long creative partnership with Greenaway, scoring arthouse films like The Cook, the Thief, His Wife & Her Lover and Prospero's Books. But it was The Piano in 1993 that turned him into a household name, with its haunting, instantly hummable themes reaching audiences far beyond the art-film crowd.

That's the Nyman most people meet first — and often the only Nyman they ever meet.

The Other Side of Nyman

“The Upside Down Violin” comes from a different corner of his catalog entirely. Composed in 1992, it was commissioned for the Michael Nyman Band together with the Orquesta Andaluzi de Tetouan — a Moroccan orchestra rooted in Andalusian classical tradition — for Expo '92 in Seville. The piece unfolds in three movements: Slow, Faster, and Faster Still, each one ratcheting up the intensity of the previous.

It's in “Faster Still” that everything Nyman is known for collides with something else entirely. His signature obsessive repetition is still there, but it's now interlaced with the modal melodies and driving percussion of North African and Andalusian folk tradition. The effect is something closer to trance than to typical Western classical music — the melodic line spirals forward at breakneck speed while the hand percussion underneath keeps splintering the rhythm into smaller and smaller fragments.

This is exactly why I think people who only know “Nyman the film composer” need to hear it. It's the same compositional DNA — the same hypnotic insistence on repetition — but stripped of the cinematic restraint and let loose at full intensity, fused with a tradition entirely outside the Western classical canon. It's proof that the man behind those quiet, melancholic piano themes also had this kind of fire in him.

I still don't know whether to file this under “classical,” “world music,” or something that refuses to be filed at all. But it's the piece I come back to more than almost any other.l Nyman Band together with the Orquesta Andaluzi de Tetouan. And yes — it really is the same Michael Nyman most people know for The Piano.

The best album

My favorite music is above but the best album is different. My best album is wrote for MGV express train. It's piano like the train make sound on a rail bridge, and strings make a dynamic scenary.

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概要: アルヴォ・ペルトは「ティンティナブリ」と呼ばれる作曲技法を1970年代に独自に開発した——音楽から不要な装飾をすべて削ぎ落とし、ただ一つの音と、その倍音だけを残す方法だ。ソビエト連邦の検閲と自己の内的な危機から生まれたこの極限の簡素さが、なぜ現代の聴衆にこれほど深く届くのか。宗教音楽でも新時代のヒーリング・ミュージックでもない、ペルトの本質を探る。

現代クラシック音楽の世界で、今日もっとも広く聴かれ、深く愛されている作曲家は誰かと問われれば、アルヴォ・ペルトの名が絶対的な頂点に立つ。

実は彼は、私が生涯で最も愛するクラシック音楽家において、第2位に置く特別な存在でもある。

この美の巨匠がいかに伝説的な存在であるか、そして彼の傑作『タブラ・ラサ』が世界のメディアとコンサートホールにどれほど深く響き渡り続けているかを、ここで見ていきたい。

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1. 生ける伝説——アルヴォ・ペルトとはいかなる存在か

現代クラシック音楽はしばしば、難解で消化しにくいという印象を持たれがちだ。アルヴォ・ペルトはそのステレオタイプを粉砕した。音楽的な過剰を削ぎ落とすことで、彼は「ティンティナブリ(tintinnabuli)」(ラテン語で「小さな鐘」)と呼ばれる独自のスタイルを生み出した——ミニマルで深く空間的な響きが、このジャンルを根本から再定義した。

正規教育と前衛音楽への深い探求

ペルトの音楽的な深みは、その正規の訓練と、20世紀の前衛的な作曲技法への徹底した探求なしには語れない。

1957年から1963年まで、彼はタリン音楽院でHeino Ellerに師事し、作曲を体系的に学んだ。しかし彼の探求はそこで終わらなかった。1958年から1968年の第一創作期において、ネオクラシシズムから出発しながらも、シェーンベルクが開発した十二音技法(ドデカフォニー)アレアトリシズム(偶然性音楽)コラージュ技法、そして音響場といった、20世紀前衛音楽の主要な手法をすべて自ら実験・吸収していった。1960年のNekrolog(ネクロログ)はエストニア初の十二音作品であり、西側から最初の国際的注目を集めた。

しかしこの探求は行き詰まりを迎える。1968年のCredoがソ連当局に禁止されたのち、ペルトは8年近い沈黙に入った。この期間、彼は14〜16世紀の合唱音楽、グレゴリオ聖歌、そしてルネサンス・ポリフォニーの起源を徹底的に研究した。十二音技法とその対極にある中世の声楽的純粋さ——この二つの極を自らの内で経験し尽くした末に、1976年、ティンティナブリ様式が生まれた。

現代音楽の最先端にあった前衛技法を深く習得し、それを意図的に手放すことで辿り着いた極限の単純さ。ペルトの音楽がもつ静寂の深さは、この比類なき音楽的旅路の産物なのだ。

客観的なデータが証明する世界的影響力

ペルトの影響力は、感覚的な評価にとどまらず、客観的なデータによっても裏付けられている。

  • 「最も多く演奏される存命作曲家」の首位独占 権威ある演奏統計サイトBachtrakによれば、ペルトは2012年から2019年まで8年連続で世界で最も多く演奏される存命作曲家の称号を保持した。今日でも、ジョン・ウィリアムズなどの映画音楽の巨匠と並んで、常にその最上位にランクされている。彼の楽曲は世界中のオーケストラで研究・演奏されている。
  • ECMレーベル現象 名門ECMレコードの創設者マンフレート・アイヒャーが、車のラジオからペルトの音楽を初めて耳にしたとき、あまりに深く心を動かされ、彼を探し出して音楽を世に届けることを決意した。以来、ペルトのアルバムはECMニュー・シリーズの決定的な看板となり、世界中のクラシック・クロスオーバーチャートのトップに君臨し続けている。

2. 世界のメディアを席巻する傑作——『タブラ・ラサ』

1977年に作曲されたタブラ・ラサ(ラテン語で「白紙」)は、過去50年間で最も重要で、最も広く演奏され、最もアイコニックな作品のひとつと言えるだろう。その影響力は伝統的なコンサートホールをはるかに超え、現代文化へとシームレスに浸透している。

遍在するラジオ放送とストリーミング

世界の主要クラシックラジオ局——英国のBBC Radio 3であれ、米国のWCRBであれ——に耳を傾ければ、タブラ・ラサ鏡の中の鏡を耳にする可能性は非常に高い。これらは「アンビエントで深い集中のための音楽」の金字塔だ。SpotifyやApple Musicでは、瞑想・集中・現代ミニマリズムのエディトリアルプレイリストに常設され、毎日数百万回のストリーミングを記録している。

現代映画とアートの究極のサウンド

タブラ・ラサの緊張感、沈黙、そして構造的な重みは、ビジョナリーな映画作家やアーティストにとって不可欠なツールとなっている。

  • 映画: ジャン=リュック・ゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』での使用で知られ、A Ghost Storyなどの現代的な映画作品にも深く取り込まれている。
  • メディア&ダンス: 現代ダンスのトップコレオグラファーたちが日常的に採用し、高品質なミニマリスト・アート・インスタレーションの音響的背景としても使用されている。

言葉では表現できないほどの人間の感情の深さや、息を呑むような静寂を伝えようとするとき、世界のメディアはタブラ・ラサへと向かう。

3. なぜ心に響くのか——個人的な視点から

ペルトを私の第2位のお気に入り音楽家として位置づける者として、私が最も魅了されるのは、彼の音楽が持つ完璧な構造、リズム、そして深い経済性だ。

タブラ・ラサを聴くことは、建築美のマスタークラスだ。すべての音、すべての休止、すべてのリズムの変化が精密に計算されており、無駄な要素はただのひとつも存在しない。それは完璧に書かれたソフトウェアコードや、純粋な現代抽象芸術を眺めるときと同じ、知的かつ美的な満足をもたらす。

混沌とした騒音に満ちたこの世界で、ペルトの音楽が電波を支配し続けているのは、現代のリスナーが切実に求めているものをそこに見出すからだ——沈黙への、真摯で妥協なき回帰を。

彼の音楽の中で私が最も愛するのは、タブラ・ラサから「Silentium(シレンティウム)」のこの録音だ。この曲は本当にゆっくりと演奏され、プリペアードピアノが鐘のように響く。それが私がこの曲を最も好きな理由だ。

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There is a genre called post-rock. Layers of sound interweave, guitars stack upon guitars, and textures emerge that seem impossible for any ordinary band to produce. Since Godspeed You! Black Emperor and Mogwai earned their worldwide reputations, the genre has been associated with a certain kind of grandeur — sound accumulated in the studio, effects piled on effects, sonic architecture meticulously constructed in a DAW. That became one of post-rock's defining templates.

But a band from Kent, Ohio called The Six Parts Seven did something else entirely.

Human Beings, Gathered Together, Making Sound

The Six Parts Seven was founded in 1995 by the Karpinski brothers — Allen on guitar and Jay on drums. Tim Gerak joined as a second guitarist in 1997, and from there the lineup remained fluid, though the three of them stayed at the core.

Their instrumentation was distinctive: multiple clean-toned (undistorted) electric guitars, bass, and drums, joined by electric lap steel guitar, vibraphone, grand piano, and occasionally viola or trumpet. Rather than strumming chords, each instrument carried a single-note melodic line, and the sound arose from the way those lines intertwined.

What matters is that this was not the product of DAW-based overdubbing — it was the sound of real musicians gathered in a real studio. Everywhere and Right Here (2004) was recorded at Magnetic North in Cleveland. Little live footage survives, so the full picture is hard to verify from video alone. But this is not music assembled from dozens of retakes and edited together in a DAW. It is the sound of people in a room, listening to each other, playing — and that is what gives it its particular texture.

Suicide Squeeze Records, and Silence

The Six Parts Seven released their records on Suicide Squeeze Records, an independent label founded in Seattle in 1996. It began with singles from Elliott Smith and Modest Mouse, and over time its roster came to include The Black Keys, Russian Circles, and Iron & Wine — a label with genuine standing in the indie world.

And yet The Six Parts Seven never broke through.

The fact that their music was regularly used as background and transition music on NPR's All Things Considered says everything about where they stood. The music played. The name never stuck. One reviewer put it plainly: the band tended to be overlooked because it had no vocalist. Sigur Rós, he noted, owed much of its popularity to the presence of a singer — even one singing in Icelandic that almost no one could understand, that voice created a kind of gravity. Whether Six Parts Seven would ever cross that invisible line, he wasn't sure.

In 2008, the band went on indefinite hiatus.

Everywhere and Right Here (2004)

This is their finest work. Eight instrumental tracks, most running over five minutes, drawing the listener quietly deeper through repetition and subtle variation.

“What You Love You Must Love Now.” “Already Elsewhere.” “A Blueprint of Something Never Finished.” The titles function like poetry. The music speaks only in sound, and leaves its resonance only in sound. The sweet tone of the lap steel, the clear ring of the vibraphone, the layered harmonics of multiple guitars moving together. All of it achieved without electronics, through nothing but human performance.

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Further Listening

Things Shaped in Passing (2002) was their first album for Suicide Squeeze. The vinyl pressing was limited to 500 copies — a modest release by any measure — yet one Discogs commenter called it “one of the most important instrumental rock albums ever recorded.” With the addition of lap steel and piano, it was the first record to capture the band's sound in its fully realized form. AV Club described it as offering “the attentive listener a brief mental vacation to a stark but scenic landscape.”

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Casually Smashed to Pieces (2007) was their final studio album, recorded at Studio Litho in Seattle and the Ice House in Akron, Ohio, with a wide cast of guest musicians. The band entered hiatus the following year.

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There is music that was never spoken of loudly, yet existed with an unmistakable completeness. The Six Parts Seven were that kind of band.

BBCのラジオ番組、Late Junctionから流れてきたその曲を、私は今でも覚えている。ジャズのピアノトリオなのに、どこかエレクトロニカのような質感があった。ビートが生ドラムなのに機械のような正確さを持ち、ベースがときにギターのように唸る。こんなジャズは聴いたことがなかった。翌日にはCDを買っていた。それがEsbjörn Svensson Trio、通称e.s.t.との出会いだった。

三人の出自と、それぞれが持ち込んだ音楽的背景

e.s.t.は1993年にストックホルムで結成されたスウェーデンのジャズピアノトリオだ。メンバーはエスビョルン・スヴェンソン(ピアノ)、ダン・ベルグルンド(ダブルベース)、マグヌス・エーストレム(ドラム)の三人。

スヴェンソンとエーストレムは幼なじみだった。スウェーデンの小さな町ヴェステロースで育った二人は、10代の頃からバンドを組んでいた。スヴェンソンの音楽的出自はクラシックとジャズの両方にあった。母親がクラシックピアニストで、父親はジャズ愛好家。少年時代にラジオでロックを聴きながら育ち、モンクを愛しつつも、その影響源はジャンルを超えていた。バンド名として仮に呼ばれていた曲のひとつが「Radiohead-Melody」だったことは、彼らの姿勢を象徴している。スヴェンソン自身も「三人ともRadioheadが大好きだ」と語っている。

エーストレムのドラムへの道は、兄のレコードコレクションから始まった。ジミ・ヘンドリックス、ディープ・パープル、オールマン・ブラザーズ、レーナード・スキナード。ロックで耳を育てた少年が13歳のときにビリー・コブハムとジョン・マクラフリンのコンサートを観て、ジャズロックに目覚めた。その体験がドラマーとしての彼の核にある。

ベーシストのベルグルンドもまた、根っからのハードロックファンだった。「ジミ・ヘンドリックスやリッチー・ブラックモアのように聞こえるように、ベースにボウとディストーションをかける実験を始めた」と本人が語っているように、彼のベースはジャズの文脈では異端の楽器だった。後にTonbruket結成後のインタビューでこう述べている。「新しいバンドにはギタリストがいるので、もはやe.s.t.のときのようにベーシストとギタリストを兼ねる必要がなくなった」──つまりe.s.t.では、ベースがギターの役割をも担っていたのだ。

生身の体が生み出した、打ち込みのような音

e.s.t.のサウンドを唯一無二のものにしたのは、この三つの異なる音楽的背景が衝突し、溶け合った結果だった。

エーストレムはブラシの毛先でスネアを叩いてポップスのリズムサンプルを模倣したり、エレクトロニック・トリガーを使ってサウンドのテクスチャを拡張したりした。生ドラムなのにプログラムされたビートのような正確さと有機的な揺らぎが共存するあの質感は、ロックで耳を鍛え、ジャズロックで目覚めた打楽器奏者が、エレクトロニカのグリッド感覚を生身の体で再現しようとした結果だった。

ベルグルンドはダブルベースにディストーション、ファズ、ディレイをかけ、ときに弓で弾いてギターのように鳴らした。ジャズの文脈では邪道とも言えるこのアプローチが、e.s.t.のサウンドにロック的な質感と推進力をもたらした。

そしてスヴェンソンのピアノ。クラシックの構築性とジャズの即興性、そしてポップスのメロディーセンスを併せ持つそのプレイは、エーストレムのリズムとベルグルンドのベースが作り出す「ジャズではない何か」の上に、確かにジャズとして着地した。

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ライブで火がついた国際的なブレイク

e.s.t.はスウェーデン国内では早くから評価されていたが、国際的なブレイクは1999年のモントルー・ジャズフェスティバルでのACTワールドジャズナイトの出演がきっかけだった。それを機にACTレーベルからスカンジナビア以外の地域にもアルバムがリリースされ、ヨーロッパ全土へと活動の場を広げた。

彼らの戦略は徹底的なライブだった。年間ほぼ100日をツアーに費やし、ジャズクラブだけでなくロック志向の会場でも演奏した。照明効果やスモークマシンを使ったステージ演出は、ジャズの観客だけでなく、若い層に届くことを意識したものだった。

ロンドンでは、ディーン・ストリートの小さなPizza Express Jazz Clubからスタートし、徐々に観客を増やしてコンサートホールを満員にするまでに成長した。Late Junctionのような実験音楽系ラジオ番組を通じてジャズ層以外にも届いていったことも、この時期の重要な経路だった。

2002年のアルバム『Strange Place for Snow』はドイツ・ジャズ賞、フランスのヴィクトワール・デュ・ジャズ(フランス版グラミー賞)最優秀国際アクト賞など多くの賞を受賞し、e.s.t.の名前をヨーロッパ中に知らしめた。2006年にはアメリカのジャズ専門誌Downbeatの表紙を飾った、初のヨーロッパ出身バンドとなった。

到達点としての『Seven Days of Falling』

2003年の『Seven Days of Falling』は、e.s.t.のサウンドが完成した作品だ。エレクトロニカとジャズとロックが完全に溶け合い、どのジャンルにも収まらない独自の音楽として結晶した。

エーストレムのドラムはこのアルバムでより大胆に「打ち込みのような」質感を追求し、ベルグルンドのベースはさらに自由にギターとベースの境界を越える。スヴェンソンのピアノは美しいメロディーを保ちながら、その下に複雑なリズム構造を隠している。

多くの批評家がe.s.t.を「ジャズを知らない人が初めてジャズを好きになる入口」と評したのはこの時期からだ。通常のジャズアルバムの三倍の売上を記録し、普段はジャズを聴かない若い聴衆がライブ会場を埋めた。

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比較という誘惑 ── Nils Petter Molværとの違い

同時代のミュージシャンとして、e.s.t.と並べて語られることがあるのがノルウェーのトランペット奏者、ニルス・ペッター・モルヴェルだ。ECMというレーベルは、静謐なチェンバー・ジャズの牙城として知られていたが、モルヴェルは1997年の『Khmer』と2000年の『Solid Ether』でその常識を覆した。特に『Solid Ether』は打ち込みビートがより前面に出た作品で、冒頭曲「Dead Indeed」はほぼすべてモルヴェル自身によって演奏・プログラムされている。ジャズの枠をはるかに超えた批評的な評価を受け、ECMの新たな聴衆層を開拓した。

しかし根本的な違いがある。モルヴェルはコンピュータとサンプラーを自ら操作し、電子的に生成されたビートの上にトランペットを重ねる。それは優れた方法論だが、e.s.t.のアプローチとは出発点が異なる。

e.s.t.が生み出したものは、生身の人間の体がエレクトロニカのグリッドを模倣し、それを超えようとした結果だった。機械を使わずに、ロックとジャズとエレクトロニカを生楽器だけで融合させる──その奇跡を、三人の人間が体で実現した。

突然の終わり

絶頂期にあった2008年6月14日、スヴェンソンはストックホルム郊外のイングアロー島近海でスキューバダイビング中に事故死した。44歳だった。同行していたのは彼の14歳の息子を含むダイビング仲間たちで、海底で意識を失った彼を発見した。

残されたベルグルンドとエーストレムは、スヴェンソンの代わりに別のピアニストを加えてバンドを続けることは不可能だと判断した。e.s.t.はそこで終わった。

その後、二人はそれぞれ別のプロジェクトで活動を続けている。ベルグルンドはTonbruketを結成し、エーストレムはソロ活動を経てRymdenを立ち上げた。しかしe.s.t.というバンドは、もう存在しない。

誰も乗り越えていない奇跡

後続のミュージシャンたちはe.s.t.のサウンドから何かを受け取り、自分たちの音楽に活かそうとした。しかしその家を完全に建て直すことはできていない。

生ドラムと生ベースと生ピアノだけで、エレクトロニカとロックとジャズを融合させるあのサウンドは、三人の特異な音楽的背景と長年のアンサンブルが作り出した、再現不可能な化学反応だった。

今から二十年以上前のアルバムを聴いても、e.s.t.のサウンドは古びない。それはこの音楽が特定のジャンルや時代の流行に乗っていたからではなく、人間の体と楽器が作り出せる何かの限界に触れていたからだと思う。

その奇跡は、まだ誰も乗り越えていない。

1997年5月29日、テネシー州メンフィス。セカンドアルバムのレコーディングのために滞在していたJeff Buckleyは、友人とともにミシシッピ川の支流Wolf Riverへと向かった。服を着たまま川に入り、そのまま姿を消した。遺体が発見されたのは6日後のことだった。30歳だった。検死の結果、アルコールも薬物も検出されなかった。服を着たままだったことなど、いくつかの不明点が今も残る。その謎めいた最期が、たった一枚のアルバムを残して去った男の伝説をさらに深めている。

残されたのは、1994年にリリースされたファーストアルバム Grace だった。

異種交配の音楽

Jeff Buckleyは1966年、カリフォルニア州アナハイム生まれ。フォーク歌手Tim Buckleyを父に持つが、幼少期に父と別れ、ほぼ交流はなかった。ニューヨークに移り、マンハッタンのクラブ「Sin-é」での弾き語りライブで頭角を現し、Columbiaレコードと契約。1994年、Grace をリリースした。

Grace という作品が特異なのは、その音楽的な雑食性にある。Led Zeppelinのハードロック的な激しさ、Nina Simoneのソウルとジャズ、パキスタンのカッワーリー歌手Nusrat Fateh Ali Khanの霊的な声の使い方——それらが一人の声と一本のギターによって統合されていた。Buckley自身、自分のプレスバイオにこう書いた。「Nina SimoneとLed Zeppelinの四人全員の歪んだ落とし子」と。

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Leonard CohenのカバーであるHallelujahは、その最たる例だ。1984年のCohenによる原曲は、宗教的・詩的な重みを持つ作品だった。Buckleyが直接参照したのは、元Velvet UndergroundのJohn Caleが1991年に発表したカバーバージョンで、シンセサイザーを排したピアノ一本によるミニマルなアレンジだった。Buckleyはそれをさらに異なる解釈で再構築した。官能的で、壊れそうなほど繊細で、しかし圧倒的な感情的強度を持つバージョンとして。今日「Hallelujah」といえばBuckley版を指すほど、そのカバーはオリジナルを超えた。

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アルバムの中でも最も詩的な「Lover, You Should've Come Over」は、Buckleyのソングライターとしての側面を最もよく示す一曲だ。声の繊細さと、言葉の密度が共存している。

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なぜ英国で愛されたか

Grace はリリース当初、アメリカではほとんど売れなかった。しかし英国での反応は異なった。批評家たちはその異質な完成度を即座に評価し、熱狂的なファンベースが生まれた。David BowieはPulse誌のインタビューで無人島に持っていくアルバムの一枚として Grace を挙げた。Bonoはファンジン Propaganda でBuckleyを「ノイズの海に浮かぶ純粋な一滴」と称し、U2のPopMartツアーでは複数の公演を彼に捧げた。

英国のオーディエンスがBuckleyに惹かれた理由のひとつは、その声の質にある。4オクターブに及ぶ驚異的な音域、感情を声に乗せることへの徹底した誠実さ、ファルセットと低音の間を自在に行き来する技術——それは当時の英国ロックシーンが求めていたものと深く共鳴した。

遺産①:Thom YorkeとFake Plastic Trees

1994年9月1日、The Bends のレコーディング中だったRadioheadとプロデューサーJohn Leckieは、ロンドンのライブハウス「The Garage」でBuckleyのライブを観た。テレキャスター一本とギネス一杯——その夜のBuckleyのパフォーマンスはRadioheadの面々を圧倒した。ベーシストのColin Greenwoodは2016年のインタビューでこう振り返っている。「ただただ圧倒的だった、本当にインスピレーションをもらった」。

翌日、YorkeはスタジオでFake Plastic Treesをアコースティックギター一本で録音した。3テイクを歌い終えた後に泣き崩れた。「あまりにも脆すぎる、使えない」と使用を渋るYorkeをバンドメンバーが説得し、その録音がそのまま最終バージョンになった。プロデューサーのLeckieはこう語っている——「ファルセットで歌っても媚びた音にならないと気づいた」。

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遺産②:Chris MartinとShiver

ColdplayのChris Martinは、2008年のBBC Radio 1のインタビューで、デビューシングル「Shiver」(2000年)についてこう語った。「あれはあからさまなJeff Buckleyの模倣だ。21歳のときで、彼はヒーローだった。ああいうものは滲み出てくる」。

また別のインタビューでは、自分たちのバンド結成そのものへの影響についても言及している。「バンドを結成するきっかけになった重要人物のひとりはおそらくJeff Buckleyだ。彼の音楽は僕たちにとって衝撃的だった。少なくとも最初の数枚のシングルは、実際に彼に似て聴こえようとしていた」。

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彼の声が届いた場所——その他の証言

RadioheadとColdplayだけではない。Grace が残した影響の射程は、世代も国境も超えていた。

Jimmy Page(Led Zeppelin) 2003年のインタビューで「Jeff Buckleyほど自分に衝撃を与えたものはない」と語り、Page自身がBuckleyのライブを観に行った際は「恐ろしいほどだった」と述べた。標準チューニングで信じられないプレイをする姿に「本当に賢いんだな、と思った」とも。

Elton John Mojo誌で史上最高のアルバムを問われ、Grace を挙げて「別の惑星から来た誰かが作ったアルバムのようだ」と語った。

Bono(U2) ラジオでHallelujahを聴きながら「ただただ嫉妬した。生のうらやましさだ」と語り、Buckleyの22秒に及ぶブレスコントロールに言及して「歌い手として、本当に謙虚な気持ちになった」と述べた。

Chrissie Hynde(The Pretenders) 「彼は本当に素晴らしいギタリストだった。歌が上手くてソングライターだと、ギターの腕が見過ごされがちだけど、あの夜のジャムで私たちは完全に吹き飛ばされた」。

Matt Bellamy(Muse) BuckleyがライブやレコーディングでメインとしていたFender Telecasterを遺品から購入した。「壁に飾るためではなく、実際に使って、このギターを音楽の一部であり続けさせるために買った。それがJeffの望みだったと信じたい」。

未完の可能性

Buckleyが亡くなったとき、セカンドアルバム Sketches for My Sweetheart the Drunk のレコーディングは始まったばかりだった。残されたデモとスタジオ録音は、死後に編集盤としてリリースされたが、それが完成形ではないことは誰の耳にも明らかだった。

Grace 一枚だけで、Buckleyはブリティッシュロックの歴史を変えた。アメリカ人として、英国のシーンの核心に触れ、Radioheadの名曲を生み、Coldplayの原点となった。もし彼が生きていたら——その問いに答えることは誰にもできない。だからこそ、Grace は今も鳴り続ける。

概要: Vashti Bunyan、Stina Nordenstam、Susanna——三者それぞれの名前を挙げれば、音楽に深く通じた人間でも首をかしげるかもしれない。しかし彼女たちが残した作品は、同時代の「認められた」アーティストたちに少しも劣らない。なぜこれほど聴かれないのか、なぜ今になって再評価されているのか。埋もれた女性シンガーソングライターたちの軌跡と、音楽の「正史」がいかにして特定の声を排除してきたかを考える。

1. ヴァシュティ・バニヤン

囁くフォークの、手つかずの先駆者

1970年、ヴァシュティ・バニヤンは『Just Another Diamond Day』をリリースした。馬車に乗ってイギリスの田舎をゆっくりと旅する中で生まれたアルバムだ。発売当初は無視され、バニヤンは数十年にわたって音楽業界から身を引くことになったが、このアルバムはその後、フリークフォークやバロックポップの伝説的な原型となった。

彼女の声はアコースティックなアレンジと張り合うことはない。代わりに、繊細なアコースティックギターやマンドリン、弦楽器の上を漂う霧のように浮かんでいる。それは「歌いすぎない」ことの力を見せつけるお手本であり、純粋に持続する囁きが、どんな大きな叫びをも凌駕しうることの証明だ。

YouTubeで聴く:「Just Another Diamond Day」

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彼女の音楽は長い間、忘れ去られていた。しかし才能あるミュージシャンたちが彼女の音楽を再評価し、彼女はカムバックを果たして、いくつかのアルバムを制作した。

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2. スティーナ・ノルデンスタム

スウェーデン出身のスティーナ・ノルデンスタムは、謎めいた存在感を放つアーティストだ。1990年代の傑作『Memories of a Color』や『And She Closed Her Eyes』は、アヴァンポップとヴォーカル・ジャズの境界を再定義した。子供のような囁き声でよく語られる彼女の声は、見かけによらず剃刀のような鋭い強さを秘めている。

豊かでオーガニックなジャズのダブルベース、繊細なホーン、予測不能なアヴァンギャルドなアレンジを背景に、彼女の声は決して楽器に埋もれることがない。音と音の間の空間を支配し、沈黙と抑制を物理的な質感として用いる。伝統的なポップ・ヴォーカルのダイナミクスに従うことを拒んだ彼女の作品は、時代から完全に切り離されているかのように感じられる。

YouTubeで聴く:「Memory of Color」

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3. スザンナ(スザンナ&ザ・マジカル・オーケストラ)

北欧的抑制が放つ、冷たく青い光

ジャズの素養を深く身につけ、ノルウェーのアヴァンギャルド・レーベル「Rune Grammofon」から重要な初期作品をリリースしたスザンナ・ヴァルムロード。キーボード奏者モルテン・クヴェニルとのプロジェクト「マジカル・オーケストラ」とともに、彼女は音の「冷たさ」を芸術の域にまで高めた。

『List of Lights and Buoys』の氷のようにミニマルなエレクトロニカを聴いても、『Melody Mountain』で名曲のロックナンバーを剥き出しのアコースティックな骨格にまで削ぎ落とした演奏を聴いても、スザンナのヴォーカルトーンは絶対的なコントロールの驚異だ。彼女の歌唱はクールで突き放したようでありながら、揺るぎない内なる重力に支えられている。ECMレコードの精神的系譜と同じく、彼女の音楽は沈黙を空虚としてではなく、ただひとつの突き刺すような声の隣にある、最も美しい音として扱う。

代表曲:「Who Am I」(スザンナ&ザ・マジカル・オーケストラ)

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彼女が(一部で)知られている理由

彼女のアルバムは北欧のマイナーレーベルや、Rune Grammofonのようなジャズ系レーベルからリリースされている。そのため、北欧のポップ・ミュージックを聴く層以外にはなかなか届かない。しかし、彼女の才能はまぎれもなく天才的だ。

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概要: サックスは1840年代に発明された楽器なのに、それで16世紀の声楽曲を演奏するとどうなるか。この記事では、ルネサンス・ポリフォニーをサックスで再解釈した驚異的な録音と、たまたま修道院の壁の中に埋め込まれていたために戦火を生き延びた中世の歌曲集の話を並べる。偶然の保存と意図的な越境が交差するところに、初期音楽の最も不思議な魅力がある。

出会いの起源——アイスランドの荒野で

1991年、ECMレコード創設者のマンフレート・アイヒャーはアイスランドで映画を撮っていた。Max Frischの小説を原作とした作品で、その荒涼とした溶岩地帯の風景の中で、彼はある組み合わせに繰り返し耳を傾けていた——スペイン・ルネサンスの作曲家クリストバル・デ・モラレスの聖歌と、ノルウェーのサックス奏者ヤン・ガルバレクの即興演奏だ。

異なるジャンル、異なる時代。しかしその二つの音楽は、アイスランドの荒野という同じ空間の中で、奇妙なほど自然に共鳴した。アイヒャーはその確信を胸に、1993年、オーストリアのSt. Gerold修道院でガルバレクとヒリアード・アンサンブルを引き合わせた。

その日の午後、ヒリアード・アンサンブルがモラレスの「Parce mihi Domine」を歌い始めて3〜4分が経ったとき、ガルバレクは静かにサックスを取り出し、何も言わず演奏に加わった。全員が呆然とするまま最後まで演奏し、曲が終わって沈黙が降りた後、アイヒャーは目に涙を浮かべてこう言った——「すぐに録音しなければならない」。

1994年、アルバム『Officium』がリリースされた。

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ヤン・ガルバレクとは何者か

1947年、ノルウェーのミセン生まれ。14歳のときにラジオでジョン・コルトレーンを聴き、その場でサックスを志した。独学でコルトレーンを模倣し、1962年にはアマチュア・コンテストで優勝。その後、アメリカの作曲家・理論家ジョージ・ラッセルに師事し、ECMレコードの最初のリリース(1970年のデビュー作Afric Pepperbird)からレーベルの顔となった。

ガルバレクのサックスの声は独特だ。鋭いエッジを持ちながら、長く伸びる持続音——それはイスラムの礼拝の呼びかけを思わせると評されることもある。しかしその根底にあるのは、ノルウェーの民族音楽との深いつながりだ。トリプティコン(1972年)が彼の演奏にノルウェー民謡を取り入れた最初の作品で、その方向はアメリカのトランペット奏者ドン・チェリーに後押しされたものだった。「私はノルウェーの民族音楽に結びついた特定の語彙やフレーズに縛られている」とガルバレク自身が語っている。

テナーサックスでノルウェー民謡を演奏するとき、彼のマイクロトーナルなピッチベンドはインドのラーガの緩やかな動きを思わせる——それはジャズの平均律的な音程ではなく、歌い手が声で音を揺らすような微細な動きだ。サックスでありながら、まるで声楽的な何かが宿っている。サックスでありながら、まるで声楽的な何かが宿っている。この奏法こそが、ヒリアード・アンサンブルの声楽ポリフォニーとの化学反応を可能にした鍵だった。

ガルバレクの音楽世界は、単なるジャズ・サックス奏者の枠を遥かに超え、自身のアイデンティティや北欧のルーツに深く根ざした「作曲」へと結実していく。その明確な一側面を示しているのが、1993年のアルバム『Twelve Moons』だ。ここではノルウェーの先住民族サーミの伝統歌(ヨイク)や、同郷の作曲家グリーグのモチーフなどを自らの語彙で再構築し、豊穣なオリジナル作品へと昇華させている。

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ヒリアード・アンサンブルとは何者か

1974年に設立されたイギリスの男声四重奏団。名前はエリザベス朝の細密画家ニコラス・ヒリアードに由来する。中世・ルネサンス期の音楽を専門とし、グレゴリオ聖歌から16世紀のポリフォニーまでを研究・演奏してきた古楽の権威だ。一方でアルヴォ・ペルトなど現代作曲家の作品も積極的に取り上げ、ECMとも長い関係を持つ。

メンバーはカウンターテナーのデヴィッド・ジェームズ、テナーのロジャース・コヴィー=クランプとジョン・ポター、バリトンのゴードン・ジョーンズの4人。2014年に41年の活動に幕を閉じた。

バッハは生涯にわたり多くの教会音楽(聖歌)を残しました。一見、楽器だけの曲に見えるこの「シャコンヌ」ですが、実はその複雑な旋律の裏に、亡き妻への祈りを込めた聖歌が暗号のように隠されていると言われています。古楽の権威ヒリアード・アンサンブルが、その隠された歌声を重ね合わせることで、名曲に全く新たな命を吹き込んでいます。

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なぜサックスが「歌う」のか——3つの理由

1. 民族音楽的なピッチの揺らぎ

ガルバレクは音程を固定した点として鳴らさない。ノルウェーの民謡奏法から体に染み込んだ「声のように音を揺らす」感覚が、サックスのラインに肉声的な質感を与えている。ルネサンスの声楽ポリフォニーが持つモーダルな音階構造と、この微分音的な奏法が自然に溶け合う。

2. 修道院の残響

録音はオーストリア・フォアアールベルク州のSt. Gerold修道院で行われた。石造りの空間が生み出す長い残響は、声楽とサックスを同じ音響空間に包み込み、境界を曖昧にする。ガルバレクのサックスは「第五の声」として、4人の声楽家と同じ空気の中で響く。

3. 楽譜を見ないという完全な即興

ガルバレクはヒリアードのスコアを一切見ない。彼が必要とするのは「何調で歌うか——♯が2つか♭が2つか——それだけ」であり、あとはすべて耳だけで演奏する。その即興は予め構成されたものではなく、声楽が生み出す瞬間の感情に反応するリアルタイムの対話だ。だからこそ、どのテイクも同じにならず、サックスの声は「歌の合間を縫う息遣い」のように聴こえる。


モラレスという素材

アルバムの中心にあるのはクリストバル・デ・モラレス(1500年頃〜1553年)——セビリア出身でローマ教皇庁の聖歌隊に10年間仕えた、スペイン・ルネサンスを代表する作曲家だ。彼の「Parce mihi Domine(主よ、我を許したまえ)」は、死者のためのミサ(Officium defunctorum)から取られた曲で、その沈鬱で厳粛な美しさは500年後の石造りの修道院でも変わらず息づいている。

アイヒャーがアイスランドの荒野でモラレスとガルバレクを同時に聴いていたのは偶然ではなかった。どちらも「大きな沈黙の中に置かれた、細い旋律の声」という点で一致していたのだ。

もう一つの奇跡——Cantigas de Santa Mariaという「消えなかった民謡」

『Officium』が聖歌とジャズの出会いであるとするなら、もうひとつの録音はさらに根源的な問いを立てている。13世紀スペインで庶民や吟遊詩人が歌った歌が、なぜ800年後に私たちの耳に「新しく」聴こえるのか。

楽譜として残ったという奇跡

1988年10月、モロッコのフェズにあるムネビ宮殿で、ひとつの録音セッションが行われた。アメリカの古楽指揮者・リュート奏者ジョエル・コーエン率いるCamerata Mediterranea、フェズ・アンダルシア管弦楽団(指揮:Abdelkrim Rais)、そしてモロッコの音楽家Mohammed Briouelが一堂に会した。曲目は13世紀カスティリャ王アルフォンソ10世(「賢王」)のもとで集成された聖母マリアへの歌、カンティガス・デ・サンタ・マリア(Cantigas de Santa Maria)。

カンティガスとは何か。13世紀のガリシア=ポルトガル語で書かれた420篇の詩と楽曲の集成で、聖母マリアへの賛美歌と奇跡物語からなる。作曲者の大部分は無名だ。宮廷に集まったイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の詩人・吟遊詩人・音楽家たちが生み出した歌を、アルフォンソ10世が王の権威をもって収集・集成した。だからこそ今日まで残った。

重要なのは、これらが楽譜として残っているという事実だ。4つの写本(エル・エスコリアルに2冊、マドリード国立図書館に1冊、フィレンツェに1冊)が現存し、それぞれに音楽記譜法が記されている。中世の記譜法は現代のものとは異なるため解読には専門知識を要するが、少なくとも旋律の輪郭は読み取ることができる。

これは奇跡に近い。同時代に貴族や大衆のあいだで歌われた無数の旋律は、楽譜なき口承として消えた。しかしカンティガスは王の庇護のもとで写本に刻まれ、8世紀の時間を超えて届いた。

コンビビエンシア——共存の時代が生んだ音楽

13世紀のスペイン、特にカスティリャとアンダルシアは、「コンビビエンシア(共存)」と呼ばれる稀有な文化的状況にあった。キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の三宗教が同じ空間で共存し、互いの文化が交差していた。この状況はレコンキスタ(国土回復運動)の進行とともに複雑な緊張をはらんでいたが、少なくともアルフォンソ10世の宮廷は、その多文化的な交差点として機能していた。

カンティガスの音楽には、グレゴリオ聖歌のモードとアラブ=アンダルシア音楽の微分音的な色彩が混在している。ウード、カヌン(ツィター系弦楽器)、ダルブッカ(ゴブレット型太鼓)が声楽と絡み合う。これはキリスト教の祈りの音楽でありながら、イスラムの楽器と音階を纏っている。1988年のフェズでの録音が、ヨーロッパの古楽アンサンブルとモロッコのアンダルシア音楽の奏者を同じ部屋に置いたのは、その歴史的な混交の再現でもあった。

ジョエル・コーエンという案内人

1942年、ロードアイランド州プロビデンス生まれ。ブラウン大学を経てハーバード大学で作曲を学んだ後、パリに渡りナディア・ブーランジェに師事した。1968年にボストン・カメラータの音楽監督に就任し(2008年まで40年間在任)、その後1990年にはCamerata Mediterraneaを設立した。

アメリカにおいてコーエンはボストン・カメラータの長期リーダーとして知られているが、大西洋の東側ではリュート奏者・弾き語り名手としての評価が高い。コーエン自身がリュートを弾きながら指揮・歌唱を行うスタイルは、中世やルネサンスの吟遊詩人的な音楽の在り方に直結している。フランス国立ラジオでの音楽プロデューサーとしての経験、エジソン賞(オランダ)の受賞、フランス芸術文化勲章(オフィシエ)の叙勲がその国際的評価を示している。

カンティガスの録音がEdison Prize 2000を受賞したことは、この「古いが新しい」音楽が専門家からも高く評価されたことの証だ。

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なぜ800年後に「新しく」聴こえるのか

楽譜として残ったことは保存の奇跡だが、それだけでは「現代の耳に新鮮に響く」理由にはならない。

理由のひとつは解読の不確かさだ。中世記譜法にはリズムの情報が曖昧にしか残っていないため、演奏者はある程度の解釈的自由を持って演奏する。厳密な再現ではなく、発掘と再創造のあいだにある音楽だ。

もうひとつは混交そのものの現代性だ。ウードとリュート、アラブの打楽器とヨーロッパの弦楽器が交差するカンティガスの音響は、現代のワールドミュージックやクロスオーバーの感覚とどこか通底している。しかしそれは計算された「融合」ではなく、共存が当然だった時代の自然な産物だ。その無計算さが、かえって現代の耳を驚かせる。

アルフォンソ10世の宮廷で名もない歌い手が口にしていたメロディが、フェズのムネビ宮殿でモロッコとヨーロッパの音楽家によって息を吹き返し、2000年代の私たちの耳に届く。楽譜という細い糸が、その800年の橋を架けた。

記録として

Officiumは1994年のリリース後、クラシック・チャートだけでなくポップ・チャートにも登場し、ECM史上最大の売り上げとなる150万枚以上を記録した。批評家はこのアルバムを「ジャズでも古楽でもない、名前のない何か」と呼んだ。ヒリアードのメンバー、ジョン・ポターは言った——「これは何の音楽か?私たちにはわからない。サックス奏者と声楽四重奏とレコード・プロデューサーが出会って音楽を作ったとき、そこで起きたことだ」と。

その後20年間で約1000回のコンサートが行われ、続編としてMnemosyne(1999年)、Officium Novum(2010年)、Remember Me, My Dear(2019年)がリリースされた。

One day, a piece of music drifting out of BBC Radio 3's Late Junction made me stop what I was doing. Strings and guitar dancing around each other in an interplay unlike anything I'd heard before. I jotted down the song title and the band name, and started working my way through their albums. Then, somewhere deep into that listening, a melody came on that I recognized — the one I'd been hearing in HP commercials for years.

Penguin Cafe Orchestra. I had been living with their music for years before I ever learned their name.

“You know it, but you don't know whose it is.” That's what Penguin Cafe Orchestra has always been.

Music Born from a Fever Dream

To talk about Penguin Cafe Orchestra, you have to start in the south of France in 1972. British guitarist Simon Jeffes ate some bad fish and fell ill. Laid up in bed, burning with fever, he kept seeing the same strange vision.

Arthur Jeffes — Simon's son — later described it this way: “My father had a nightmare about the near future. People lived in enormous concrete buildings, staring at screens. In the corner of each room sat a large camera, watching them constantly. In one room, a couple was having loveless sex. In another, a musician sat surrounded by mountains of equipment — but wearing headphones, so no actual music filled the room.”

At the opposite pole of that inhuman world, Simon saw in his dream a place called the Penguin Cafe. Walking down a dark street, you'd come upon an old building spilling out light and noise. Inside, a long table where strangers sat shoulder to shoulder. And at the far end, a small ensemble playing — music that felt somehow familiar, yet impossible to place.

When the fever broke, Simon made a decision: he would write the music that dream ensemble was playing. And so, in 1972, Penguin Cafe Orchestra was born.

Chamber Music Called an “Orchestra”

The word Orchestra conjures images of a large symphonic ensemble. The actual Penguin Cafe Orchestra was something far removed from that — a small, intimate group.

Guitar, cello, violin, ukulele, trombone, percussion. The lineup shifted from piece to piece, and Simon brought in harmonium, penny whistle, rubber bands, and even telephone dial tones as instruments. This was chamber music — or something even freer than that, something that refused any category.

The name Orchestra was Simon's joke, and also his musical manifesto. He borrowed a word with authoritative weight and quietly dismantled what it implied. Not music to fill a concert hall, but music to be played in the back of a café — intimate, warm, bodily. That was what Simon was after.

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“Perpetuum Mobile” (1987). Written in the irregular meter of 15/8, this piece carries the sensation of a perpetual motion machine that seems always about to end but never does. It became widely known as the theme for the TV adaptation of The Handmaid's Tale and the film Mary and Max.

The Music of Its Moment, and Something Distinctly British

When Penguin Cafe Orchestra released their debut album in 1976, they were emerging from — and in conversation with — a rich landscape of contemporary music.

In America, Steve Reich and Philip Glass were developing Minimalism: repeating patterns, layered voices, quiet transformation. PCO's music shares structural affinities with all of that. But it keeps a clear distance from Minimalism's abstraction and cool detachment.

Where contemporary Minimalism pursued intellectual structural beauty and rigorous systems, PCO's music is shot through with an irrepressible sense of play. Rubber bands as instruments. Telephone dial tones looped into a piece literally called “Telephone and Rubber Band.” Odd time signatures and intricate counterpoint that, in Simon's hands, read not as complexity but as humor. He borrowed Minimalism's language and then let the air out of its tension — that was Simon Jeffes's particular genius.

Part of the source of that playfulness, I think, lies in British and Irish traditional music. Trad has long been built around the repetition of short phrases for dancing — reels and jigs, melodies cycling with small variations. The repetition that Minimalism pursued intellectually was already embedded there, in the body, in the feet. PCO brought both kinds of repetition together not as an academic proposition but as physical joy.

The origin story of “Music for a Found Harmonium” is emblematic. On a Japanese tour, Simon happened upon an old foot-pedal organ abandoned by the roadside. The simple melody that emerged from that imperfect instrument slipped so naturally into the grammar of Irish reels that traditional players — Patrick Street, De Dannan, Kevin Burke, Sharon Shannon — began covering it as if it had always belonged to them. Not classical music, not contemporary art music, but the music people have danced and laughed and made noise to across generations — that was what supported PCO's humor and lightness.

The debut album was released on Obscure Records, the label run by Brian Eno. Eno's ambient music proposed a static kind of space — music that could be listened to or ignored equally. Simon's vision was different: it contained the warmth and noise of people actually gathered together. PCO's music has that particular friendliness because, against Eno's depopulated atmosphere, it always carries the body heat of other people in the room. Meanwhile, Kraftwerk was inventing an entirely new musical language called techno. PCO shared in the same contemporary questions, and turned toward something more human, somewhere warmer.

The rhythmic vitality of folk, the structure of Minimalism, the atmosphere of ambient, the intimacy of chamber music — all of it dissolved into a distinctly British lyricism. None of Philip Glass's chill, none of Eno's self-erasure, none of Kraftwerk's mechanization. Something more human, more frayed at the edges, and funnier.

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“Music for a Found Harmonium” (1984). Inspired by a foot-pedal organ Simon discovered abandoned on a street. The melody was adopted by Irish traditional musicians as their own, and was later featured in the film Napoleon Dynamite.

Success, Forgetting, and Ubiquity

Penguin Cafe Orchestra were never obscure. The 1987 album Signs of Life charted in the UK, and they toured internationally. They found an audience in Japan. The Royal Ballet incorporated their music into productions. They appeared on The South Bank Show and on Terry Wogan's television programme.

But their debut came out in 1976 — the year I was born — and that music is now “old.” Streaming algorithms favor new releases. And Simon Jeffes died in 1997, of a brain tumor, at forty-eight. There would be no new music, no new tours.

Still, the music kept living. As film scores, as television soundtracks, as background music in commercials. HP was only the most prominent of countless advertisements. The Handmaid's Tale, Mary and Max, Napoleon Dynamite, Capitalism: A Love Story — the list of screen works drawing on PCO is long.

This is how the “you know it but you don't know whose it is” phenomenon works. The music continued to reach people's ears through different circuits even after the name faded from common knowledge. Only the name was left behind as time moved on.

What the Son Inherited

Ten years after Simon's death, in 2007, former members gathered at Union Chapel in London for a memorial concert. On that stage, Simon's son Arthur Jeffes played percussion and keyboards. All three nights sold out.

Encouraged by that response, Arthur formed a new band in 2009 called simply Penguin Cafe — a completely new ensemble, with none of the original PCO members.

Arthur studied archaeology and anthropology at Cambridge — an intellectual by formation — while also nurturing a passion for experimental music. There's a story from his childhood of him striking piano keys with a hammer, which Simon apparently read not as destruction but as the first stirrings of an experimental spirit.

Penguin Cafe has now released five albums, every one of them on Erased Tapes — the post-classical label that has been home to Nils Frahm, Ólafur Arnalds, and Jóhann Jóhannsson. That fact alone signals that Arthur is not simply preserving Simon's legacy, but actively situating Penguin Cafe within the contemporary conversations of post-classical and neo-classical music.

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In the repeating structures and unique sense of play that animate Penguin Cafe, the weight of his father's influence is not hard to find.

Still Playing, in the Back of the Café

The latest album, Rain Before Seven… (2023), represents the current horizon of Arthur's Penguin Cafe. Its title draws from an old British weather saying — “Rain before seven, fine before eleven” — and the music carries Simon's spirit forward while speaking in Arthur's own voice.

Violin, cello, double bass, percussion alongside balafon, ukulele, melodica. Just as Simon made rubber bands and telephone tones into instruments, Arthur brings “unexpected sounds” into the chamber music frame. The approach is faithful throughout to his father's philosophy: “Take an interesting, slightly weird idea and do something weird with it. But make it beautiful, and emotionally accessible.”

The dream café is still open. The ensemble in the back is still playing. And you have almost certainly already heard them. You just didn't know their name.