危うさを飼いならす建築——ニコ・ミューリーと『Bigger & Closer』が体現する音楽の理想

音楽とは、建築のように構造化された堅牢さを持ち、その中に立つ人を安心させる空間を作り出すものだ——これが私の音楽の定義だ。感情の発露や情景の描写ではなく、時間の中に秩序づけられた緊張の連なりを構築すること。この定義に立つとき、ニコ・ミューリーが『David Hockney: Bigger & Closer (Not Smaller and Further Away)』のために書いたスコアほど、それを体現する作品はないと思う。

なぜ私がそう考えるのか。そしてなぜこの作品が、その理想の到達点に見えるのか。順を追って書いてみたい。

I. 理論——なぜ音楽は感情の発露ではないのか

キャンバスに一本の線が引かれた瞬間、そこに空間の緊張関係が生まれる。円を描けば、線と円の間にも新たな緊張が生まれる。抽象絵画とは、この緊張関係が崩壊せずに安定している状態のことだ。

同じことが、時間の中でも起きている。一つの音が鳴った瞬間、私たちの耳はまだ鳴っていない次の音を待ち始める——その「待つ」という緊張こそ、音が時間の中に引く一本の線だ。

環境音と音楽の違いは、ここにある。雨音や風の音は、次に何が来るかという予測の構造を持たない。それは緊張を生まない、ただの持続だ。一方で音楽は、音と音の関係が時間の中で秩序づけられ、聴き手の耳に「次はこうなるはずだ」という緊張を絶えず生成し続ける。この秩序づけられた緊張の連なりこそが、音楽を音楽たらしめている。

だから私は、音楽は個人の感情や情景を表現するものではないと考える。感情の発露としての音楽は、聴く人の存在を設計に含んでいない。作曲者自身の内面だけに向かって書かれた音は、極端に言えば一人よがりであり、そこに他者が入り込む余地が設計されていない。対して私が考える音楽は、この時間的な緊張関係を秩序立てて構築することで、そこに立つ人を包み込む「空間」として設計される。空間である以上、そこには必ず”誰かが立つ”ことが前提とされている。これは建築が「住む人」を前提に設計されるのと、同じ構造だ。

この定義は、このブログでこれまで論じてきた音楽への評価とも一貫している。たとえばJeff Buckleyを高く評価してきた記事でも、同じ理由を書いた。彼の声は、感情を訴えかける独白としてではなく、ロックという強固な土台——堅牢なリズムと和声——の上に置かれた家具や植木のように機能している。土台そのものは崩れることなく空間を支え、その中に声という彩りが配置されることで、空間全体に生命感が宿る。ロックという土台の強度があるからこそ、声は聴き手を圧倒する感情の吐露ではなく、空間を豊かにする一要素として響く。

ニコ・ミューリーの音楽も、この原理——堅牢な構造の上に、聴く人を包み込む彩りを配置するという設計思想——によって貫かれている。近年の音楽認知科学(ボリビアのチマネ族を対象とした2016年の研究など)が示すように、私たちが「調和」に安心を感じる耳そのものが、後天的に建てられた一つの文化的な構築物なのである。

II. Speaks Volumes——危うさが剥き出しだった頃

ミューリーの音楽的な出自は、一見水と油の二つの極からできている。本人が繰り返し語っているのは、「アメリカン・ミニマリズム(ライヒ、グラス)」と「イギリス・ルネサンス期の合唱音楽(バード、ギボンズ、パーセル)」という影響だ。ミニマルの反復するパルスと、ルネサンス対位法の独立した声部——この二つを同時に抱えていることが、彼の音楽を単純なミニマルのフォロワーから隔てている。

2006年、25歳のミューリーが発表したデビュー作『Speaks Volumes』には、その二つの極がまだ生々しく衝突したまま同居している。”Pillaging Music”はあちこちに跳躍しながら、始まりと同じくらい混沌としたまま終わる。プロダクションのレベルでも、静電気のスパークや陶器のボウルを転がる金属球のような生々しい電子音が、演奏音に直接混ぜ込まれている。まだ「本当に建つのか」という危うさが、抑制されずにそのまま提示されている段階だ。

Nico Muhly - Pillaging Music (Speaks Volumes)

この危うさは、建築家ザハ・ハディドの初期——コンペで一等を取りながら実現しなかった〈ザ・ピーク〉の時代、あの「無数の破片が飛び散ったような」ドローイングの時代を思わせる。ザハの場合、その危うさが現実の建築になったのは1993年の〈ヴィトラ社消防所〉で、三次元の構造計算という不可視の技術によってだった。ミューリーにとってその「構造計算」にあたるものこそ、対位法だったのではないかと思う。声部同士の予測不可能な衝突は、実は対位法という規則によって統御されている——聴感上の危うさと、内部の堅牢な計算が分離していること。この分離こそが、両者に共通する美の構造だ。

III. Bigger & Closer——抑制された危うさ、純化された建築

2023年、ロンドンのLightroomで発表された『David Hockney: Bigger & Closer』のスコアは、この危うさが大きく抑制されている。ピアノ/チェレスタ、弦楽四重奏、フルート/ピッコロという室内楽的な小編成のもと、”Perspective Lesson”や”Drawing with a Camera”といった曲は、Speaks Volumesにあったような予測不可能な跳躍や衝突をほとんど持たない。より聴きやすく、調和的な響きへと着地している。

しかしそれは、音楽が単純化されたということではない。ここでミューリーは、ミニマルの反復するパルスを梁や柱として敷き、その上に対位法的な声部の独立性を積み上げている。パルスは「同じ形が繰り返される」という予測可能性を保証し、聴き手を空間の中に安心して立たせる。一方で各声部が独立した論理で動く対位法は、その安定した構造の中に、荷重を分散させる複雑な力学を持ち込む——単なる単調な反復ではなく、支え合う構造としての強度を生む。

この二つが同時に働くことで、「聴く人の存在を含んで設計された空間」という私の音楽の理想が、初めて構造として成立する。ミニマルだけなら、それは単に均質で退屈な反復にすぎない。対位法だけなら、それは聴き手を置き去りにした危うい迷路になる。ミューリーがデビュー作で示した危うさを、ここであえて抑制したのは、この二つの技法を積極的に組み合わせることで、「危うさを内包しながらも人を安心させる建築」という、より完成された堅牢さへ向かうためだったのではないか。

それは、ホックニーが一点透視図法という「唯一の正しい視点」に反発し、複数の視点を一枚の絵に定着させようとした画業とも、鮮やかに呼応している。独立して動く複数の声部(対位法)は、まさにホックニーがカメラやキャンバスで試みた「複数の視点の同時存在」の音楽的翻訳だ。多くの視点を統合しながらも崩壊しない——大きな安心として、この音楽は響く。

Nico Muhly - Pools (David Hockney: Bigger & Closer)

結び

音楽の定義は無数にある。しかし「聴く人の存在を含んで設計されているか」という基準に立つとき、危うさを抑え込み、より純粋な構築へと向かった『Bigger & Closer』は、一人よがりではない音楽の一つの臨界点を示している。

ミニマルという堅牢な骨格と、対位法という複雑な力学。この二つを積極的に用いることで、ニコ・ミューリーはまさに建築のような音楽を成立させている——それも、危うさを消し去るのではなく、飼いならすことによって。