Spangle call Lilli lineは、なぜ抽象的な言葉で歌うのか

Spangle call Lilli line(以下SCLL)は、なぜあれほど抽象的な言葉で歌うのだろう。

以前、「もっと知られてほしい、日本のインディーミュージシャン3組」という記事で、彼らのことに軽く触れたことがある。あのときは「歌詞の意味よりメロディの輪郭を優先するバンド」という紹介にとどめていた。今回は、その「なぜ」の部分――彼らがなぜそういう歌い方を選んでいるのか、その特別な意図を、もう少し踏み込んで掘り下げてみたい。

「浮遊感のあるヴォーカル」「意味の掴めない歌詞」。これまでこのバンドは、そんな印象論でずっと語られてきた。でも、それだけで片づけてしまうのはもったいない。そこには、かなり明確な設計思想があると思う。

抽象的な歌詞は、ポップ・ミュージックにありがちな「ヴォーカルの感情的な起伏」を軸にした音楽的展開――静かなヴァースから盛り上がるサビへ、という、あの定型――から曲を解放するための手段だ。人称も物語も持たない言葉を選ぶことで、ヴォーカルは「聴き手を感情移入させる主役」の座から降りる。旋律の一要素へと、静かに後退していく。

その結果、曲の展開を担う主導権はギターとドラムに移る。SCLLの楽曲は歌ものでありながら、ポストロックが本来持つ器楽的な構造の自由さを、しっかり獲得しているのだ。

その到達点のひとつが、アルバム『forest at the head of a river』(2010年)に収録された「zola」だろう。9分56秒という長尺の構成でありながら、ヴォーカルの感情的な高まりで押し切るのではなく、ギターとドラムの展開だけで曲全体が推進されていく。

Spangle call Lilli line「zola」ライブ映像

しかもこれは、キャリア後期になって突然身につけた特殊技能ではない。デビュー間もない2002年のアルバム『nanae』に収録された「Veek」の時点で、すでに7分37秒という同種の長尺構成が試みられている。

Spangle call Lilli line「Veek」

つまりSCLLにとって、ヴォーカルに依存しない曲の展開は初期から一貫した音楽的な志向だったのだろう。抽象詩による歌詞の設計は、その志向を支えるために磨かれていった手段だった、と考えられる。

なぜこの理屈が成り立つのか。歌詞の文構造、語彙選択、そしてアンサンブルの中での声の配置という三つの層から、順に見ていきたい。

美大出身、本業を持つ3人という体制

SCLLは、1998年に東京造形大学の同級生だった大坪加奈(ヴォーカル)と藤枝憲(ギター)によって結成された。後に同じく学生時代の友人だった笹原清明(ギター)が加わる。当初はドラムの椛沢信之を含む4人編成だったが、2003年に椛沢が脱退してからは3人体制となり、サポートメンバーを迎える形に移行した。

藤枝はグラフィックデザイナー、笹原はフォトグラファーとしての顔も持つ。メンバー全員が音楽以外の仕事を持ちながら、バンドを続けている。この体制こそが、20年以上にわたって外部の商業的なスケジュールに縛られない、マイペースな制作を可能にしてきたのだと思う。

ライブでは、コアの3人に加えてベース・ドラム・キーボードが加わり、曲によっては生のピアノやストリングスまで参加する。

Spangle call Lilli line「Piano」(Live)

このライブ映像では、キーボードとピアノがそれぞれ独立したパートとして鳴っているのがわかる。鍵盤楽器だけでも役割が分かれているということは、和声を支える層と旋律的な動きを担う層とが、あらかじめ分業されているということだ。藤枝自身、現在の音作りについて「今のサポートメンバーとじゃないと作れない」「サポートの3人も含めてスパングルでいいんじゃないか」と語っている。固定された3人組という枠組みを超えて、流動的で加算的な編成そのものが、もはや彼らの音楽の一部になっているのだろう。

「誰の話でもない」歌詞

SCLLの歌詞は、Wikipediaでも「ありきたりなわかりやすい言葉」ではなく「抽象的な言葉」が並ぶことが特徴として挙げられている。この抽象性の正体を、まずは文の構造から見ていきたい。

彼らの歌詞には、一人称も、特定できる二人称も、ほとんど現れない。時系列を追える出来事の連なりもない。名詞と動詞の断片が並置されるだけで、「誰の物語か」が特定できない構造になっている。

これは、リスナーが感情移入するための最低限の足場――語り手と、語りかけられる相手――を、意図的に外しているということだ。

語彙が抽象化する2つの手口

「誰の話でもない」という文構造の上に、さらに語彙そのものの選び方が抽象性を強めている。ここでは2曲を例に、その手口を見てみよう。著作権の都合上、歌詞本文の引用はできないので、あくまで単語単位の分析に留める。

Spangle call Lilli line「nano」

「nano」の冒頭に出てくる語彙は、日常会話ではまず組み合わせない硬質・古語寄りの名詞群だ。普段まず使わない言葉をあえて持ち込むことで、意味の通った物語を組み立てにくくしている。

Spangle call Lilli line「B」(Live at EX THEATER ROPPONGI 2019)

一方、「B」では違う手口が使われている。日本語の名詞群の間に、色や感情を示す短い英語フレーズが脈絡なく挟み込まれる。日英が交互に来ると、聴き手の意味処理のモードは強制的に切り替わり続ける。物語として追う回路は、さらに働きにくくなるわけだ。

面白いのは、この曲の歌詞に「歌う」という動作と「ファルセット(裏声)」という発声技法の名前そのものが登場する点。ボーカルの発声法そのものを歌詞の題材にしてしまう、ある種自己言及的な仕掛けが仕込まれている。

象徴の系譜とSigur Rósとの違い

実在の語彙を保持しながら意味の連続性を断ち切る。この手法自体は、SCLLの独創というわけではなく、詩の歴史の中に古い系譜を持っている。

19世紀末のボードレールに始まり、ヴェルレーヌが言葉そのものの音楽性を、マラルメが言語そのもので完結する象徴の世界を追求した象徴主義の流れは、後のダダやシュルレアリスムにまで影を落としている(この系譜についてはコトバンク「詩」世界大百科事典に詳しい。ここでは深追いせず、そういう文化的な連続性があるとだけ記しておきたい)。

この系譜を踏まえたうえで、しばしば引き合いに出されるSigur Rósとの違いをはっきりさせておこう。

Sigur Rósの「Hopelandic」が目指すのは、言語以前の純粋な音響的快楽だ。語彙そのものが存在しないので、そこには連想もイメージも生まれようがない。一方でSCLLは、実在する日本語の語彙を手放さない。文としての意味は失われても、一つひとつの単語が本来持つ気配や質感――象徴主義の詩人たちが追求した、言葉が喚起するイメージそのものの力――は、ちゃんと残り続けている。

両者は「意味からの逃走」という点では同じ方向を向いているように見える。でも、逃げ込む先が違う。Sigur Rósは言語の外側、純粋な音響へ。SCLLは、言葉が持つもう一つの機能――象徴として響く力――の内側に、あえて踏みとどまっている。

では、この「意味を剥奪された声」は、実際のアンサンブルの中でどう物理的に配置されているのだろう。ここからは歌詞というテキストの分析を離れ、声そのものが楽器群の中でどう鳴っているかを見ていきたい。

モチーフが増減するアンサンブル

SCLLの演奏構造そのものは、実は前衛的でも何でもない。ヴォーカルが主旋律を歌い、ギターが背後でコードを鳴らす。この骨組みは、ごく一般的な歌ものの骨格と変わらない。

ただ、その内実をよく見ると、ギターは1本ではなく、役割の異なる2本に分業されている。1本はコードをそのまま鳴らす、和声を支える役目。もう1本は、コードの構成音の中から特定の音を選び、短いフレーズを作って反復する役目だ。そこにベースが根音を支え、キーボードやピアノ、ときにストリングスが加わる。複数の短いモチーフが増減しながら曲の風景を変えていく、そんな構造になっている。

この構造は、実はSCLL固有のものではない。ギター担当の藤枝と笹原がSCLLと並行して手がけるインストゥルメンタル・ユニット「点と線」にも、同じ手法が見て取れる。

点と線「scene-1 -it was.-」

「scene-1 -it was.-」にはヴォーカルが入っていない。それでも、後半にいくほど参加する楽器の数が増えていき、あるフレーズ――たとえばストリングスの反復――がしばらく鳴り続けたのちに途切れる。そんなブロック単位の出入りによって、曲が進行していく。

傑出したインスト曲というわけではない。それでも、ひとつの事実は確認できる。ボーカルという最も強い牽引力なしに楽曲を構築し、成立させるだけの作曲的な力量を、藤枝と笹原はもともと持っているということだ。

つまりこの多層的な旋律構造は、抽象詩やヴォーカルの不在によって「結果的に」生まれたものではない。この2人の作曲家が、そもそも持っている作曲上の性向なのだ。SCLL本体では、そこに大坪加奈の抽象的な声がもう一枚重なる。だからヴォーカルさえも、この多層構造の一要素として自然に溶け込んでいるにすぎない。

平熱を保つボーカル

曲が音楽的に盛り上がる場面でも、SCLLのヴォーカルは高音域まで駆け上がるような劇的な起伏を作らない。せいぜい、声を伸ばす程度の変化にとどまる。

この平熱さは、発声そのものの質感とも呼応している。声を張り上げたり、逆にファルセットやウィスパーに逃げ込んだりするのではなく、歌詞の言葉を一つ一つ丁寧に旋律へ乗せていくような、几帳面な歌い方が貫かれている――これはあくまで聴感上の印象であり、音響的に検証されたものではないけれど。感情を煽る抑揚をつけるのではなく、言葉を淡々と旋律の上に置いていく。だからこそ声は、周囲の楽器と地続きのテクスチャとして溶け込んでいるように聞こえるのだと思う。

曲の盛り上がりは、ヴォーカルの音域や声量の変化によってではなく、周囲の楽器の層が増えることによって作られている。ヴォーカルは主旋律でありながら、感情的な起伏という点では、最後まで平熱を保ち続ける。

Aメロ・サビからの自由

Aメロ・Bメロ・サビという構造は、本来ヴォーカルの旋律的な起伏――溜めから解放へ――を軸に設計される形式だ。サビが「サビ」として機能するのは、そこでヴォーカルが感情的なピークを作るからにほかならない。

SCLLはヴォーカルをその役割から降ろしている。だから、この形式を維持する必然性自体がない。代わりにギターのフレーズ変化、楽器の増減が、曲の展開を担うことになる。

多くのポストロック系バンドがヴォーカルを入れる場合、結局は「静かなヴァースから激情のサビへ」というダイナミクスに回帰しがちだ。SCLLは、ヴォーカルの平熱さによって、その引力からうまく逃れている。

結論

結論として言えるのは、こういうことだと思う。SCLLをヴォーカルを持ちながらポストロック的なダイナミズムを獲得した稀有なバンドたらしめているのは、この抽象詩そのものだ、ということ。

人称を持たず、物語を拒み、稀少な語彙で意味の連続性を断ち切る歌詞。それは単なる作風上の選択ではない。ヴォーカルを「感情を語る主役」の座から降ろしながらも、構造上の座――主旋律を歌うという骨組み――は保持させたまま、旋律の一要素へと後退させるための、精密に機能する装置だったのだ。

その結果として彼らは、歌ものでありながらインストゥルメンタル・ロックが本来持つ構造的な自由――ギターとドラムの展開だけで曲を前に進める自由――を手に入れている。「zola」の9分56秒がヴォーカルの熱唱なしに成立してしまうのは、この設計の必然的な帰結にほかならない。