ルネサンス期のバッハ級に重要な作曲家——ギヨーム・デュファイ
ギヨーム・デュファイの現存作品を数で見ると、意外な事実に突き当たる。完全な形で残る循環定旋律ミサはわずか7曲。対して世俗のシャンソンは、数え方にもよるが59曲から87曲にのぼる。ミサ作曲家としての名声が先に立つこの作曲家は、数の上ではむしろ圧倒的にシャンソン作曲家だったのだ。この事実は、デュファイという作曲家の実像を考え直すための、ささやかだが確かな手がかりになる。
デュファイが影響を受けた音楽——イングランドの対位法と和声
循環定旋律ミサ、すなわちミサ通常文の全5楽章(Kyrie、Gloria、Credo、Sanctus、Agnus Dei)を単一の定旋律で統一するという形式を最初に組織的に用いたのは、大陸の作曲家ではなくイングランドの作曲家たちだったとされる。加えて、3度・6度を中核とする甘美な協和音への傾向も、イングランドの音楽には以前から存在していた。これは特定の一人が突如生み出したものではなく、イングランドの音楽文化に根づいていた傾向であり、それを作曲に積極的に採り入れた代表的な存在として、ジョン・ダンスタブルとレオネル・パワーの名が挙げられる。彼らの音楽はのちに”contenance angloise(イングランド風)“と呼ばれるスタイルとして知られていく。つまりイングランドの地では、「循環ミサという形式」と「甘美な協和音という響き」という二つの要素が、デュファイ以前にすでに育っていたことになる。
この響きが大陸側に伝わった背景には、百年戦争末期の政治情勢がある。イングランドとブルゴーニュ公国は1420年代から長きにわたり同盟関係にあり、フランス摂政を務めたイングランドのベッドフォード公はパリに自らの楽団を構えていた。ダンスタブルはこのベッドフォード公に仕えた人物とされ、英仏・ブルゴーニュが交錯するこの政治的な結節点を通じて、イングランドの音楽語法が大陸側、とりわけブルゴーニュ公国とその領邦であるフランドル地方へと浸透していくことになる。ブルゴーニュ公国は現存する国家ではないが、その版図は本領(現在のフランス東部、ディジョンを中心とする地域)と、フィリップ善良公の代に大きく広げた低地地方(フランドル、アルトワ、エノー、ブラバント、ホラント、ゼーラントなど、現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルクにまたがる地域)から成っていた。デュファイが少年聖歌隊員として育ったカンブレーは、現在のフランス北部、ベルギー国境に近い都市で、まさにこのブルゴーニュ勢力圏の只中に位置していた。
この経緯は、詩人マルタン・ル・フランが1441〜42年頃、ブルゴーニュ公フィリップ善良公その人に献呈した詩篇『貴婦人の擁護者』の中に証言として残っている。デュファイとバンショワが、ダンスタブルの「イングランド風」を取り入れて優れた作曲家になった、という同時代の記述であり、この様式はことにフィリップ善良公治世下のブルゴーニュ宮廷を主要な舞台として大いに流行したとされる。
Unicorn Ensembleが聴かせる、世俗の声
その響きを自らの血肉としたデュファイの世俗曲創作の実像を、《Dufay: Chansons》(Naxos 8.553458、Bernhard Landauer/カウンターテナー、Michael Posch指揮、Ensemble Unicorn、1996年)で聴くことができる。全17曲のうち半数近くが器楽のみのトラックとして収録されている点がまず耳を引く。歌われる曲でも、下2声はリコーダー、キーボード・フィドル、ハーディガーディ、ウード、ハープといった楽器群が担い、独唱と器楽が溶け合う響きを作り出す。15世紀の宮廷シャンソンは、上声部を歌い下声部を楽器で支えるカンティレーナ様式で演奏されたと考えられており(下声部が歌詞を持たない=untextedという写本上の特徴がその根拠とされる)、この盤はその様式を具体的な音として提示している。「Se la face ay pale」のシャンソン版そのものも、この盤では器楽のみのインストゥルメンタル・トラックとして収録されており、旋律そのものの輪郭がむき出しになって聴こえてくる。
橋渡し——旋律そのものの転用
デュファイがここで用いた手法として何より雄弁なのは、込み入った和声理論の話ではなく、もっと直接的な事実である。《ミサ「Se la face ay pale」》のテノール(定旋律)に置かれているのは、聖歌でも既存の宗教曲でもない。デュファイ自身が書いた恋愛バラード「Se la face ay pale」、その旋律そのものである。聖歌ではなく世俗曲を定旋律に据えた、現存する最初期のポリフォニー・ミサの一つとされる。宮廷の恋を歌った甘美な世俗の調べが、一音も違えずそのまま最高聖典であるミサの背骨へと置き換わる——これ以上に直接的な「俗から聖への越境」の証拠はない。
Munrowが差し出す、聖なる器の響き
その結実を聴けるのが、デイヴィッド・マンロウ&ロンドン古楽コンソートによる《Dufay: Messe “Se la face ay pale”》(1974年、EMI/現Warner Classics)である。この録音は、まず独立したGloria断章「Gloria ad modum tubae(トランペット風のグローリア)」から始まる。これは《Se la face ay pale》のミサ本体とは別の、単体の宗教曲だ。上声2声(歌詞付き・カノン様式)に対し、下声2声は歌詞を持たず「トランペット風に」という指示だけが記されており、この記譜そのものが器楽(この録音ではサックバット)での演奏を前提としていると解釈されている。
続くミサ本体(Kyrie〜Agnus Dei)は、各パート2人ずつの歌手による声楽中心の解釈で、器楽コンソートは声を支える程度に控えめに配置されている。専門筋の評でも、この「2人一組+控えめな器楽」という編成がこの曲の構造的な複雑さを効果的に伝えるとされ、マンロウ自身にとっても新機軸だったこの解釈は、2000年以降主流になる演奏様式を先取りしていたとも評価されている。
このミサ本体の骨格を成すテノールの旋律を追いながら聴くとき、それが先ほどUnicorn盤で聴いた、あの恋の歌の調べだということを思い出したい。冒頭で見た「シャンソン87曲」という数の厚みは、単なる余技ではなく、ミサそのものの血肉になっていたのである。
HilliardとMunrow——二つのデュファイへの態度
同じミサを、The Hilliard Ensembleは全く異なる態度で演奏している。この団体は《Missa “Se la face ay pale”》だけでなく、Nuper rosarum floresをはじめとするデュファイのモテット群も一貫して無伴奏で歌い続けてきた。器楽を交えないという選択は、単なる様式的な潔癖さではないだろう。複数の声部を人間の声だけで重ね合わせる行為には、器楽合奏にはない固有の面白さがある——互いの息づかいを聴き合い、音程を探り合い、フレーズの呼吸を演奏者同士でリアルタイムに調整していく身体的な共同作業だ。Hilliard Ensembleの演奏が聴かせているのは、デュファイの旋律を「鑑賞する」体験というより、声という楽器を通して演奏者自身がその構造を「感じる」体験そのものなのかもしれない。
一方でマンロウは、15世紀当時の音楽文化そのものの豊かさを聴かせようとした。この時代、世俗曲を中心に器楽演奏は広く実践されていた。歌詞を持たず「トランペット風に」という指示だけが記された独立のGloria断章を選んで収録したのは象徴的だ。この曲は元来、声でも器楽でも成立するように書かれている。マンロウはそこに、一つの旋律が媒体を超えて響きうるという、当時の音楽が持っていた懐の深さを聴き取ったのだろう。
どちらが「正しい」デュファイなのかを競う必要はない。Hilliard Ensembleが差し出すのは声を合わせることそのものの快楽であり、マンロウが差し出すのは一つの旋律が声にも楽器にも開かれていた時代の柔軟さである。同じ作曲家の同じ旋律が、これほど異なる二つの喜びを引き出せるという事実こそが、デュファイという作曲家の懐の深さを物語っている。
結び——バッハに先立つ統合者として
対位法そのものは、デュファイの発明ではない。12〜13世紀のノートルダム楽派やアルス・ノヴァの時代からすでに高度に発達していた技法であり、デュファイはその数世紀にわたる蓄積を受け継ぎ、自身の様式の中に統合した集大成者である。一方、和声面では話が異なる。イングランドから伝わった3度・6度中心の甘美な協和音感覚と、自らのシャンソン創作で培った世俗的な和声感覚——出自の異なるこの二つを一人の作曲家の書法の中に同居させ、後世に読める形の記譜として残したことこそが、デュファイ固有の功績である。
音楽学者・皆川達夫は『中世・ルネサンスの音楽』の中で、デュファイの様式について、マショー以来のフランス多声叙情歌曲に連なる旋律法、イソリズム的な構成技法、3度・6度を核とするイギリス風の和声感覚、旋律を優位に置くイタリア的な書法、そして後の機能和声や対位法的構成へとつながる傾向まで、複数の異なる系譜の要素が一人の作曲家の中に同居していると指摘している。フランス、イングランド、イタリア——同時代のヨーロッパ各地で別々に育った音楽語法が、デュファイという一つの様式の中に流れ込んでいたことになる。
これは机上の様式論だけの話ではない。デュファイは生涯のうちにカンブレーの聖歌隊で育ち、イタリアのリミニでマラテスタ家に仕え、ローマ教皇庁の聖歌隊員となり、フィレンツェ大聖堂の献堂式のために作曲し、サヴォワ宮廷にも出仕している。複数の様式が一人の中に同居し得たのは、彼自身がヨーロッパを股にかけて移動し、それぞれの土地の音楽語法を肌で吸収してきた実務家だったからでもある。
つまりデュファイの功績は、「対位法という既存の遺産の統合」と「和声という新しい感覚の記録」という、二つの異なる性質の仕事を同時にこなした点にある。イングランドで完成された形式と響きを大陸に持ち込み、自らの膨大なシャンソン創作で培った世俗的な旋律感覚と掛け合わせ、後世(バンショワ、オケゲム、そしてフランドル楽派全体)に手渡した——この「交通整理」の仕事によって、デュファイはバッハ——同じく先行する諸様式を統合し、後世に残る形で記譜した統合者——と並び称されるべき存在なのである。


