電子の歌姫が歌うルネサンス:Sintel『Missa Miku』が提示する、古楽とヴォーカロイドとの出会い

トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria)の厳かなポリフォニーを求めてネットの海を彷徨っていた私が、まさか「初音ミク」の歌声に辿り着くとは夢にも思わなかった。

見つけてしまった。2021年にリリースされた、Sintelというアーティストによるアルバム『Missa Miku』。これは、数百年の時を超えた宗教音楽と、現代の音声合成テクノロジー、そしてインターネットの混沌としたユーモアが奇妙に同居する、とんでもない傑作(怪作)だ。

1. ヴォーカロイドが紡ぐ「機械ならではの美しさ」

初音ミクを単なる「アニメキャラクター」だと思っているなら、その認識は今すぐ改めたほうがいい。彼女の本質は、人間の声をサンプリングして作られた「音声合成ソフトウェア」、つまり極めて自由度の高い楽器(シンセサイザー)である。

ルネサンス期の教会音楽が求めるのは、極限まで無駄を削ぎ落とした「純粋な響き」だ。そこにミクの声が持つ独特の美しさが重なる。人間の声のように揺れず、まっすぐ伸びるシンセサイザーのようなピッチ——その機械的な純度こそが、ルネサンス・ポリフォニーの澄んだ空間と驚くほど相性が良い。情念やビブラートとは無縁のニュートラルな透明感は、中世の聖堂の響きを現代のデジタル回路の中に呼び覚ます。

O Magnum Mysterium - Sintel

2. 職人技のピッチコントロール:画面の向こうの「新たな祈り」

しかし、このアルバムの本当の凄みは、その瑞々しい響きの裏にある「途方もない手間」にある。

音声合成ソフトは、楽譜通りに音符を並べただけ(ベタ打ち)では、ただの機械音になってしまう。古楽の流麗な旋律線を表現するためには、1音ずつピッチの微細な揺れやボリューム、子音と母音のアタックのカーブを泥臭く描き込んでいかなければならない。複数のパートが完璧に噛み合うポリフォニーを成立させるその作業量は、気の遠くなるものだ。その緻密なコントロールの痕跡自体が、現代のクリエイターにとっての一種の「祈り」のようにすら思えてくる。

Jesu, Rex Admirabilis - Sintel

3. 本作に登場する作曲家たち

収録されているクラシックのセレクトは極めて本格的だ。

トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria, c.1548–1611) 16世紀ルネサンス期、スペイン最大の作曲家。神秘的で哀愁を帯びたポリフォニーの巨匠。本作の『O Magnum Mysterium(大いなる神秘)』のミク版は必聴。

ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, c.1525–1594) ビクトリアと同時代のイタリア人作曲家。対位法を極限まで洗練させた「ルネサンス音楽の神」的存在。完璧な調和を持つ旋律(本作では『Jesu, Rex Admirabilis』)は、デジタルの正確性と恐ろしいほど相性が良い。

ヘンリー・パーセル(Henry Purcell, 1659–1695) 17世紀バロック期、イギリス最大の作曲家。本作収録の『Miku's Lament』はタイトル自体が歌劇『ディドとエネアス』の有名なアリア『Dido's Lament(ディドの嘆き)』をもじったもの。その悲痛な美しさがミクの声でどう表現されているかは、アルバムのハイライトの一つだ。

Tetractys - Sintel

4. 洗濯機と産声:実験的なトラックたち

本作のもう一つの面白さは、真面目な音楽的アプローチの中にインターネット・ミーム的な脱力感が平然と混ざり込んでいる点だ。

トラック1『Genesis of a Miku(ミクの創生)』では、水の流れるような音が続いた後、ミクが歌うように呟く産声のような声がそっと響く。アルバムの幕開けとして、彼女の「誕生」を静かに告げる。……と思いきや、中盤のトラック8では一転して『Accidentally left Miku in the washing machine(誤ってミクを洗濯機に置き忘れた)』というタイトルで再び「水」が登場する。こちらはシンセによるグリッチノイズとミクの音声をカット&ペーストしたループが繰り返される、わずか40秒あまりの実験的な小品だ。聖なる「産声の水」から、日常の「洗濯機の水」へ。聖なる多声音楽の間に、こうした異質なトラックが平然と挟み込まれているところに、Sintelというアーティストの真骨頂がある。

こうした試みも含め、調教の技術的困難さからか、収録曲はいずれも2分前後の小作品が中心で、アルバム全体でも18分ほど。クラシックのアルバムとしては極めて短いが、裏を返せば一切の無駄がない、凝縮された体験とも言える。その密度の中に、数百年の時を隔てた音楽が鮮やかに蘇る瞬間が詰まっている。

Genesis of a Miku - Sintel

5. 奇妙なミュージシャン「Sintel」とその遍歴

この壮大な実験を企てたのが、Sintelという謎めいたアーティストだ。2019年の『Top Ten most Epic fish of all time』では「史上最も壮大な魚トップ10」という謎のコンセプトのもと、深海魚の名を冠した極上のIDM/アンビエント・エレクトロニカを展開。2020年の『Outer Gardens』では『List of Lists of Video Game Terms(ゲーム用語の一覧の一覧)』といったシュールな曲名を交えつつ、美しくもミステリアスな音響空間を作り上げた。

「真面目に美を追求すること」と「インターネットの奇妙な断片をコラージュすること」の境界線を軽々と飛び越える——その集大成が『Missa Miku』なのだ。

結び:古楽は、こんなに近くにあった

古楽を聴いたことがない人にとっても、このアルバムはすんなり耳に入ってくるはずだ。初音ミクという現代のアイコンを媒介にすることで、ルネサンスの多声音楽はいつの間にか、遠い教会の記憶ではなく、今ここにある音楽として蘇る。それこそが『Missa Miku』の静かな、しかし確かな革新性だ。

何百年も前に教会で神に捧げられた祈りの旋律が、現代のパーソナルコンピュータの中で、制作者の執念に満ちたコントロールカーブによって電子の歌姫に授けられ、今私たちの耳に届いている。クラシックファンも、電子音楽ファンも、ぜひ一度この「デジタルな聖堂」の扉を開けてみてほしい。