なぜクラシック音楽において打楽器は主要な楽器たりえなかったのか
はじめに
打楽器の使用は、世界中の民族音楽や大衆音楽に広く見られる。日本の雅楽の鞨鼓、西アフリカのエウェの太鼓アンサンブル、中東のフレームドラム、そして後述するジャズやロック。多くの文化圏で、太鼓や打楽器的なものは音楽の骨格そのものを担ってきた。
それにもかかわらず、西洋クラシック音楽の伝統においては、打楽器はティンパニという、あくまで和声を補強する脇役的な楽器の使用にほぼ限定され続けてきた。教会音楽から解放され、公開演奏会という商業的な場で聴衆を熱狂させることを求められたはずの西洋音楽は、なぜ最後まで拍動的なリズムを主役に据えなかったのか。ヨーロッパにも打楽器は確かに伝わっていた。ではなぜ、西洋芸術音楽の「正史」の中で、それらは一度も中心に座らなかったのか。
この問いを掘り下げていくと、単一の答えには行き着かない。そこには少なくとも四つの異なる時代の、異なる論理が積み重なっている。
第一層:身体への神学的不信
驚くべきことに、ヨーロッパが楽器の拍動的なリズムを警戒する態度は、オスマン帝国やムーア人との接触よりはるか以前、4〜5世紀の教父たちの時代にすでに確立していた。アウグスティヌスは『告白録』の中で、聖歌を聴く際の感覚的な快楽そのものに強い葛藤を抱いていたことを告白している。教父たちは楽器音楽全般を「ユダヤ教的な譲歩」と見なして退け、トマス・アクィナスも後年これを要約して、教会が神の讃美に楽器を用いないのは「ユダヤ教のやり方に逆戻りしたと見られないため」だと述べた。
ここで排除の対象になっていたのは、特定の民族の楽器ではない。身体を突き動かすリズムそのものが、感覚的快楽・異教の儀礼(ディオニュソス崇拝など)と結びつけられ、理性的・霊的な音楽——声楽、非拍動的な詠唱——よりも劣ったものとして位置づけられた。西洋音楽の理論的基盤が、中世以来一貫して音高の関係性(旋法、和声、対位法、調性)によって組み立てられてきたのは、この神学的な価値序列と無関係ではない。無音高の打楽器は、この作曲言語の文法の中に、そもそも意味を持たせる場所を与えられていなかったのである。
重要なのは、この序列がヨーロッパの民衆文化を完全に制圧したわけではなかったという点だ。南イタリアのタランティズモ(トランス状態を伴う治療儀礼としての激しい太鼓の踊り)は20世紀まで記録され続けたし、フレームドラムの一種であるアドゥフェはポルトガルやガリシアの民俗音楽の中に、女性たちの伝統として生き延びた。つまり正確に言えば、ヨーロッパは「陶酔的な打楽器文化を持たなかった」のではなく、教会・宮廷という上層の制度が、それを一貫して周縁化し続けたのである。
第二層:身分とジェンダーによる周縁化
中世を通じて、タボール(パイプ・アンド・タボール)は旅の大道芸人や道化師の楽器として、フレームドラムは古代メソポタミアの神殿儀礼の時代から一貫して「女性が演奏する楽器」として位置づけられてきた。これらの楽器は確かに存在し続けたが、常に特定の身分・特定の性別に紐づけられたマーカーとして扱われ、「作曲家が構造的な素材として扱う対象」へと格上げされることは一度もなかった。伝わってはいたが、内部化はされなかったのである。
第三層:オリエンタリズムという新しい層
16〜18世紀、オスマン帝国との接触が本格化すると、この既存の序列に民族的な他者化が重なる。イェニチェリ軍楽隊の太鼓・シンバル・トライアングルは「トルコ趣味(アラ・トゥルカ)」としてヨーロッパの流行になり、モーツァルトの『後宮からの誘拐』やハイドンの交響曲第100番「軍隊」にその痕跡を残した。しかしこれはあくまで「異国情緒の記号」としての表面的な借用であり、太鼓が西洋音楽の構造的な骨格として統合されることはなかった。
つまり土台にあったのは神学的な価値判断であり、それが「音高中心の書法こそが正当な音楽言語だ」という構造的な規範として制度化され、後の時代に民族的な他者化が重ね書きされていった。「音楽的構造の問題」と「エスノセントリズムの視線」は別々の原因ではなく、同じ一つの価値序列が異なる時代に異なる形で表現されたものだと考えるのが、もっとも筋が通る。
転換点:20世紀、西洋音楽の内側からの解放
この構造が初めて内側から崩れ始めるのは、20世紀前半の前衛においてである。エドガー・ヴァレーズの『イオニザシオン』(1931年)は、西洋の演奏会用作品として初めて、無音高打楽器のみによるアンサンブルのために書かれた。バルトーク、そしてジョン・ケージの一連の打楽器作品がこれに続く。
しかし本当の意味での転換は、ミニマル・ミュージックによってもたらされた。スティーヴ・ライヒは1970年、実際にガーナに渡航し、アクラ大学でエウェ族の巨匠奏者から直接ドラミングの指導を受けた。この経験から生まれた『ドラミング』(1971年)は、「複数のパターンが同時に鳴りながら、それぞれの拍頭が一致しない」というエウェの太鼓アンサンブルの構造原理を、そのまま西洋の作曲言語の骨格として移植したものである。これは18世紀の「トルコ趣味」とは決定的に異なる。あれが表面的な借用だったのに対し、ライヒは実際に技術を習得し、その原理を内面化した。
もっとも、この「学習と統合」自体にも批判はある。西洋の作曲家が非西洋の伝統を抽出し、自らの権威ある芸術的言語に組み込む、洗練された形の専有ではないかという指摘である。ライヒの受容のされ方が、彼が学んだガーナの奏者たち自身の評価向上に必ずしもつながらなかった、という非対称性は、この長い歴史の中になお残る影である。
なぜ20世紀に「国際化」しえたのか
ここでもう一つ重要な問いが浮かぶ。なぜジャズやロック、そしてミニマル・ミュージックは、20世紀に打楽器的な語法を伴って世界的な広がりを持ちえたのか。
一つの仮説として、「打楽器と陶酔・宗教的恍惚の結びつきは、世界の多くの文化に共通する普遍的な現象であり、それがこの国際化を後押しした」という考え方がある。音楽と憑依・トランスの関係を扱った古典的研究、ジルベール・ルジェの『音楽とトランス』は、この仮説の一部に慎重な留保を突きつける。ルジェは世界中の民族誌資料を横断的に検証した上で、「太鼓のリズムが宗教的恍惚(トランス)を神経生理学的に直接引き起こす」という通俗的な理論を疑似科学として退け、トランスが何を意味し、いつ起こるかは文化的な意味体系ごとに大きく異なると結論づけている。
ただしこれは、リズムそのものへの反応がすべて文化的な構築物にすぎない、という意味ではない。トランスという宗教的恍惚のレベルとは別に、もっと基礎的なエンテインメント(拍への同調)という現象がある。一定のパルスを耳にすると、脳波や身体の動きが自然にそのパルスに同調する現象で、生後8ヶ月の乳児の脳がすでに音楽的リズムに同調することを示す研究や、聴覚刺激から拍を能動的に感じ取る「ビート・インダクション」の能力が、人間の音楽認知に広く共有された基盤的特性として報告されている。これは動物界でも極めて例外的な能力とされ、人類にほぼ普遍的な生理的基盤と言ってよいだろう。
つまり正確に言えば、「太鼓が宗教的恍惚を引き起こす普遍的な力を持つ」という強い主張は支持しにくいが、「人間の身体がビートに同調する基礎的な生理的傾向を持つ」という、もう一段階弱い主張には、かなりの根拠がある。この区別は、次の建築との比較を考える上で重要になる。
むしろ実証的な裏付けが強いのは、もっと世俗的で具体的な政治的・経済的回路である。
ジャズの起源そのものについて言えば、その打楽器的な核心は「多民族国家アメリカ全体の意志」というより、ニューオーリンズのコンゴ・スクエアという特殊な植民地法の産物だった。フランス・スペインの植民地法の慣習で奴隷に日曜の休息が与えられ、西アフリカ系の太鼓のリズムが禁じられることなく継承された、抑圧下の文化的抵抗の場である。
その国際的な拡散については、1956年から始まったアメリカ国務省の「ジャズ大使」プログラムという、明確な冷戦下の文化外交政策があった。ディジー・ガレスピーやルイ・アームストロングを世界中に派遣し、ソ連の対米プロパガンダに対抗する。ヴォイス・オブ・アメリカのラジオ放送がこれを支えた。
建築との比較:単一の様式か、拠点を経由した融合か
ここで一つ、補助線を引いておきたい。20世紀にはもう一つ、まったく別の分野で似たような「国際化」が起きている。ガラスと鉄骨コンクリートによるモダニズム建築である。ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエの様式は、インドのチャンディーガルから東南アジアの新都心まで、世界中の都市景観を塗り替えた。
しかしこの建築の国際化と、音楽の国際化を、まったく同じメカニズムとして説明することはできない。両者の間には決定的な違いがある。
建築の場合、世界中に広まったのは単一の、均質な様式だった。ガラスとコンクリートは、気候が違おうと、文化的背景が違おうと、その土地にどんな伝統的建築様式があろうと関係なく、同じ工法で組み立てられる。この物理的な素材そのものには、現地の伝統と融合すべき「内容」がない。だからこそ、モダニズム建築はどこへ行っても基本的に同じ形——ガラスの箱——として現地の景観を置き換えた。均質化・置換としての国際化である。
音楽の場合は違う。前章で見た通り、ビートへの同調(エンテインメント)という基礎的な生理的傾向は、人類にかなり普遍的に備わっていると考えられる。しかしこの「普遍的なエンジン」がアメリカという20世紀の国際交流の拠点から世界各地に輸出されたとき、それは建築のように現地の伝統を均質な形に置き換えたのではなく、各地の民族音楽的伝統と融合し、その土地ごとに異なる形へと分岐していった。ジャズはフランスに渡ってジャンゴ・ラインハルトのジプシー・スウィングになり、キューバのリズムと結びついてアフロ・キューバン・ジャズになり、日本ではジャズ喫茶という独自の受容文化を生んだ。ミニマル・ミュージックも同様で、ライヒはガーナのエウェの太鼓の構造を、グラスはインドのターラの周期リズムをそれぞれ取り込み、後続の作曲家たちはそれぞれの土地の音楽的語彙とさらに融合させていった。ロックが世界中で無数のローカルな変種を生み出したのも同じ構造だろう。
つまりモダニズム建築が「単一の形式が世界を覆った」現象だったのに対し、20世紀のアメリカ発の音楽は「一つの普遍的な駆動力(リズムへの同調という生理的傾向)が、拠点となる国家を経由しながら、各地の伝統と無数の異なる形に融合していった」現象だったと言える。均質化と多様化、この違いこそが、建築と音楽の国際化を分けている点ではないか。ミニマル・ミュージック、ジャズ、ロックがそれぞれ世界各地でまったく異なる姿の音楽へと分岐しながら、それでもなお「同じエンジン」を共有し続けていることこそ、建築のような単一様式の伝播では説明できない、音楽固有の普遍性のあり方を示しているのだと思う。
なぜ植民地時代には広まらなかったのか
ここで対照的な事実が浮かび上がる。ヨーロッパのクラシック音楽は、植民地支配という数百年に及ぶ接触の機会を持ちながら、現地の文化として根付くことはほとんどなかった。フランス領インドシナのハノイ・サイゴン・ハイフォンに建てられたオペラハウスは、現地住民の「無関心」に阻まれ、「植民地とフランス本国を隔てる距離をむしろ際立たせる」結果に終わったと研究者は指摘する。ブラジルのマナウス歌劇場も、先住民の労働搾取の上に築かれた入植者だけの飛び地だった。観客はフランス語や西洋の作法を解する植民地エリート層にほぼ限定され、現地の音楽的伝統とはついに接点を持たなかった。
この対比が示すのは、文化の伝播は音楽そのものの魅力だけでは説明できないということだ。植民地主義という制度は、支配者と被支配者の間の恒久的な階層的差異を維持することを目的としており、文化を対等に共有する意志を構造的に持っていなかった。一方、20世紀のジャズが国際的な共通言語になりえたのは、脱植民地化した新興国を対等な同盟国として獲得する必要があった冷戦下の政治状況、そして受け手側の能動的な選択が噛み合ったからである。
おわりに
クラシック音楽が打楽器を排除してきた歴史は、単一の原因に還元できない。神学的な身体嫌悪、身分とジェンダーによる周縁化、そして民族的な他者化——複数の異なる排除の論理が、たまたま同じ方向を向いて積み重なり、今日私たちが「クラシック音楽」として受け取る規範を形作った。そしてその規範が内側から崩れ始めたのも、単なる美的な気まぐれではなく、実際に非西洋の伝統に足を運び、対等な学び手として向き合った作曲家たちの、具体的な実践によってだった。
その先に、20世紀という時代がある。ビートへの同調という、人類にかなり普遍的な生理的傾向が確かに存在し、それがアメリカという国際交流の拠点国家を経由して世界中に輸出されたとき、モダニズム建築のように現地を均質な形へと置き換えるのではなく、各地の民族音楽的伝統と融合しながら、無数の異なる音楽へと分岐していった。ジャズ、ロック、ミニマル・ミュージックがそれぞれ世界各地でまったく異なる姿をとりながら、それでもなお同じ駆動力を共有し続けているという事実こそが、この普遍性のあり方を物語っている。それは単一の様式が世界を覆うのではなく、一つの普遍的なエンジンが、各地の伝統との無数の出会いを通じて、多様な形に開かれていく国際化だった。
西洋クラシックを愛好しながら、同時にそれがこうした排除の歴史の産物であることを自覚し続けること。この二つは矛盾するものではない。武満徹が生涯かけて『ノヴェンバー・ステップス』という作品の中に刻み込んだ緊張関係——東西の音楽的伝統は無理に調和させるべきではなく、違いを保持したまま並置すべきだという認識——は、この長い歴史を踏まえた上での、一つの誠実な応答の形だったのだろう。