低音の持続——ヴィヴァルディの隠れた名曲と、Max Richterを貫く一本の糸
私たちは音楽を聴くとき、無意識のうちに低音を求めている。耳は、低音が鳴っていなくても倍音から勝手にそれを補ってしまう性質を持っているからだ。携帯電話の小さなスピーカーでもベースを感じられるのは、そのせいだ。
だとすれば、その低音が錯覚ではなく、実際に絶え間なく鳴り続けているとき、耳は何を受け取るのだろうか。
この問いを追いかけて、300年隔てた二人の作曲家を一本の糸でつないでみたい。『四季』の陰で、低音の性質を極限まで引き出した37曲のファゴット協奏曲を書いたヴィヴァルディ。そしてその『四季』を、減衰しないシンセサイザーの持続音で再構築したMax Richter。二人がここまで低音の持続にこだわった理由を辿ってみる。
耳は低音を勝手に補ってしまう
「低音が音楽の土台になる」というのは比喩ではなく、実際に耳の仕組みに根ざした話だ。
18世紀の理論家Rameauは、和音の「根音」は楽譜上の約束事ではなく、聴覚が実際に感じ取っている現象だと考えた。この直感は現代の心理音響学で裏付けられている。人間の耳は、複数の倍音から根音を勝手に再構築してしまう性質を持っていて、これは「ミッシング・ファンダメンタル」と呼ばれる。たとえば120Hz・180Hz・240Hzという倍音だけが鳴っていても、脳はそこにない60Hzを補って聴いてしまう。冒頭で触れた携帯電話のスピーカーの話も、この仕組みの一例だ。
つまり耳は、低音がなくてもそれを補おうとするほど低音を重視している。だからこそ、低音が実際に鳴っている時は、もう何かを推測する必要がなく、より確固たる安定感として響く。
面白いのは、ファゴットという楽器自体がこの現象を誘発しやすい性質を持っていることだ。ファゴットはコントラバスのような極端な低音楽器ではないが、音そのものの基音が弱く、代わりに倍音が豊かに、時には基音以上に強く鳴るという特徴を持つ。つまり耳は、ファゴットの音を聴くとき、まさにこの「勝手に低音を補う」仕組みをフルに働かせている。ヴィヴァルディがこの楽器の低音表現にこだわったことには、単なる好み以上の音響的な必然性があったのかもしれない。
通奏低音を徹底して使い切る
ヴィヴァルディの本業は宮廷作曲家ではなく、ヴェネツィアの養育院オスペダーレ・デッラ・ピエタの音楽監督だった。当時「オーケストラ」という標準化された概念はまだ存在せず、合奏の規模は施設によってバラバラ。そんな中でピエタは、資金が安定し、常設の高水準な演奏家集団(孤児院の少女たちから選抜された奏者たち)を抱えるという、当時としては恵まれた環境だった。ヴィヴァルディは毎月2曲もの協奏曲を書く契約のもと、この環境を実験場にできた。
37曲ものファゴット協奏曲は、その実験の産物だ。誰のために書かれたのかは実は今も特定されていない。それでも技巧の高さから、相当な腕前の奏者がいたことは間違いない。
この曲群がなぜ面白いかというと、協奏曲というジャンルの発明そのものが「低音楽器が埋もれないための装置」だったからだ。協奏曲は、バロック時代に作曲家たちが編み出した、独奏者と合奏を交互に対比させて曲を組み立てる方法だ。もしファゴットが弦楽器群の中に埋め込まれていたら、その低い音はヴァイオリンの山にかき消されてしまう。しかし協奏曲は合奏が沈黙する瞬間を用意し、その間だけ独奏者の声を際立たせる。
RV495はまさにそのファゴットのための協奏曲の一つだ。その第2楽章では上声の弦楽器を全部取り払い、独奏ファゴットと通奏低音だけの対話にしてしまう。通奏低音とは、チェンバロのような鍵盤楽器とチェロやコントラバスといった低音楽器が組になり、和声が変わるたびにその根音を鳴らし続けることで、旋律の下で途切れることなく和声を支え続ける様式のことだ。つまりこの楽章がやっているのは、この記事のテーマそのもの——低音を絶え間なく持続させることで音楽の土台を作るという行為——であり、それを合奏という”山”を取り除いた、もっとも剥き出しの形で聴かせている。
Thomas Dunfordのアンサンブル「Jupiter」による演奏(2019年)を聴くと、これがどう響くかがよくわかる。優れた演奏家が参加することで、この曲が持つファゴットと合奏の対比が見事に引き出されている。低音群が演奏全体の骨組みとして機能しているという評も、この構造が実演でどう生きるかを裏付けている。
古典派は低音から何を奪ったか
通奏低音はもともと、作曲家が低音の旋律とそこに付ける和音の数字だけを示し、実際にどんな和音をどう鳴らすかは奏者の裁量に委ねる、かなり自由度の高い様式だった。同じ曲でも弾く人によって響きが違う、即興性を前提にしたシステムだったわけだ。この通奏低音は1750年から1775年頃にかけて、緩やかにオーケストラから姿を消していく。作曲家が奏者の裁量に委ねるのをやめ、伴奏の一音一音まで自分で書き記すようになったこと、オーケストラの規模が拡大したことなどが背景にある。低音は「和声を生み出す主体」から「和声を支えるだけの脇役」へと後退し、音楽は主旋律とその伴奏というホモフォニー的な質感へ移っていく。
ベートーヴェンの『英雄』冒頭は、一見この流れへの反例に見える。主題を提示するのはヴァイオリンではなくチェロだ。しかし「低音楽器が主役を演じること」と「低音域に厚みがあること」は別問題だ。あの箇所のチェロは単旋律のメロディを弾いているだけで、それを支える持続的な低音の層はどこにもない。他の弦は静かなシンコペーションの和音を添えるだけで、テクスチャー全体は驚くほど薄い。ヴィヴァルディの通奏低音が和声を鳴らし続けて重みを持たせていたのに対し、ここでは低音楽器がたまたまメロディを担っているだけで、土台としての厚みはむしろ失われている。
カラヤン&ベルリン・フィルの演奏は、この譜面上の薄さに対する一つの回答だ。カラヤンの演奏はしばしば「美しい響きの壁」と評されるが、低音楽器群への強いエンファシスによって「より深みがある」とも評されている。作曲的には存在しない低音の土台を、演奏解釈が後から補っている、という見方ができる。
Richterがシンセを選んだ理由
Max Richterが『四季』を再構築するにあたって、ヴァイオリンの自由な旋律線をミニマリズム的な反復音型に置き換えると同時に、通奏低音が担っていた役割をシンセサイザーの持続音で作り直したのは、偶然ではない。彼はこう語っている。
「ヴィヴァルディの音楽はモジュラーで、小さなパターンの積み重ねでできている。それは私自身の音楽の作り方と同じだった」
独奏と合奏が交互に現れるこの反復と模倣の構造は、フェイジングのようなミニマリズムの技法と表面的にかなり近い。この近さがあったからこそ、ヴィヴァルディの再構築はただの懐古趣味ではなく、構造的な必然性を持った企てになった。
彼はヴィンテージのMoogシンセを「バロック時代のストラディヴァリウスに相当する」と表現している。ここには技術的な面白さもある。チェンバロのような撥弦楽器の通奏低音はアタックが強く減衰が速いので、常に前へ進もうとする駆動的なエネルギーを生む。一方Moogのようなシンセベースは、鍵盤を押している間、減衰せず均一に持続する。Richterがやったのは、バロックの「駆動する低音」を、空間を満たす「ドローンとしての低音」へ翻訳する作業だったと言えるかもしれない。
こうした低音の厚みは、実は普通のオーケストラ編成でも作れる。Philip Glassの交響曲群を聴けば、金管や木管の低音楽器を重ね、音を伸ばすだけで、ミニマリズム的などっしりした土台は十分に作れることがわかる。だからこそ、Richterが敢えてシンセを選んだことの意味がはっきりする。彼が欲しかったのは重さそのものではなく、演奏者の息継ぎもボウイングの揺らぎも一切介在しない、完全に均一な持続音だった。生の楽器がどれだけ巧みに音を伸ばしても、そこには必ず微細な減衰の痕跡が残る。シンセだけが、その揺らぎのなさを実現できる。
通奏低音とシンセベースに共通しているのは、低音を作品の初期段階から構造として設計するという作曲家の意志だ。違うのは、通奏低音が数字付き低音という可変的な記譜法で奏者に委ねられていたのに対し、シンセのパートは完全に固定されたスコアだという点。低音を設計する意志は同じでも、それを固定するか委ねるかで両者は分かれる。
音楽のための音楽
19世紀の批評家Hanslickは、音楽の美は物語や情景の表現ではなく、音そのものが作る自律した形式にこそある、と主張した。ロマン派の標題音楽への反論として書かれた理論だ。
これをヴィヴァルディに重ねてみると面白い構図が見える。『四季』はソネットと対応する情景描写を持つ、標題音楽の先駆けのような曲だ。一方でファゴット協奏曲群は標題を持たず、協奏曲という形式の論理だけで成立している。同じ作曲家が、この二つの側面を対立の意識もなく並行して書いていた。『四季』が圧倒的に有名なのは、その物語性が聴き手の取っ掛かりになるからで、ファゴット協奏曲群が音楽的な構造だけで自分を語らなければならないぶん、人気の面では損をしている——というのは皮肉な話だ。
Richterが『四季』でやったのは、標題性をさらに強調することではなく、音型をパターン化し低音を固定するという、むしろ形式への還元だった。ただしそれは形式主義を証明するためではなく、ヴィヴァルディの音楽に眠っていた、現代のミニマリズムやアンビエントと響き合う構造を掘り起こすためだったはずだ。
300年前、チェンバロの撥弦が生んでいた駆動する低音は、いま減衰しないシンセの持続音として、静かに空間を満たすドローンに姿を変えている。楽器も美学もまるで違う。それでも、低音を土台として設計しようとする作曲家の意志だけは、時代を越えて変わらない。それが、ヴィヴァルディの隠れた名曲とMax Richterをつなぐ、一本の糸なのだと思う。


