800年前の環境音楽(アンビエント):なぜ12世紀の「オルガヌム」は、いま私たちの耳にこれほど新しく響くのか

導入

日本の中世音楽研究の先駆者、皆川達夫氏のもとには長年、不思議な手紙が届いていたという。差出人はモーツァルトもベートーヴェンも聴かない若い世代。それなのに、中世の古楽には理屈抜きに感動したと書いてくる。

その感覚が分かる気がした。トリオ・メディアエヴァルを流しながら本を読んでいて、驚くほど邪魔にならなかった。それでいて耳を澄ませると、信じられないほど面白い。ブライアン・イーノがアンビエントを評した「興味深くもあるが、無視することもできる」という定義に、800年前の声がそのまま当てはまる。

なぜこの12世紀の音は、いま新しく響くのか。鍵となる二枚の名盤がある。女性三人の声と、男性四人の声。作者の名が残らなかった音楽と、「最初の作曲家」として歴史に名を刻んだ音楽。トリオ・メディアエヴァルとヒリアード・アンサンブル、この二枚を道しるべに、12世紀パリの音響革命へ旅をしたい。

第1章 声が消えていく時代から、書き残される時代へ

グレゴリオ聖歌に代表される単旋律の時代、音楽は口承で受け継がれ、歌うたびに鳴り、消えていった。

9世紀ごろ、声を紙の上に固定する記譜法の萌芽が生まれる。皆川達夫氏によれば、この頃に見られる低声部のドローンは、ビザンツ教会の典礼に由来する可能性があるという。フランク王国がビザンツの勢力圏と接して領域を広げた歴史を踏まえれば、ありうる話だ。

ここで一つ注意したい。単旋律から多声音楽への移行を、単純な「進化」と語らないことだ。複数の声を重ねること自体は世界各地の大衆音楽に広く見られる、人類に普遍的な衝動である。ヨーロッパの特殊性は、その大衆の慣習が教会と記譜法に出会い、体系化された点にある。

舞台はやがて、修道院の閉じた祈りから、都市の大聖堂へと開かれていく。その中心地がパリのノートルダム大聖堂だった。同じ頃、教会建築もリブ・ヴォールトとフライング・バットレスによって天井を高く伸ばすゴシック様式へ転換しつつあった。空間を満たしたいという同じ欲求が、建築と音楽の両方で進んでいた。

第2章 トリオ・メディアエヴァル――名もなき声の回復

この変容の中心人物が、レオニヌスとペロティヌスである。レオニヌスの『マグヌス・リベル・オルガニ』を、ペロティヌスが3声・4声へと拡張した。これは「作曲家」という概念が初めて記名された瞬間とも語られる。

だが同じ写本の山には、記名されないまま埋もれた無数の声も眠っていた。トリオ・メディアエヴァルが2005年にECMから出した『Stella Maris』は、その「記名されなかった側」に光を当てる。収録曲のほとんどは作者不詳。しかも当時、女性がこれを歌うことも聴くことも想定されていなかった。つまりこの録音は、記録に残らなかった匿名性と、声を与えられなかったジェンダーという、二重の不在を埋める行為である。

その象徴が、表題曲「O Maria, stella maris」だ。低く持続するドローンの上、一つの声が歌い始め、やがて分かれ、複数の旋律が絡み合っていく。

O Maria, stella maris

岡田暁生氏が指摘する通り、初期のオルガヌムでは新しい声部はあくまで聖歌を装飾する脇役だった。だがやがてこの脇役は主役と対等な比重を持ち始め、主旋律と伴奏という階層そのものが溶けていく。トリオ・メディアエヴァルが歌うのは、まさにその境界が溶けていく途中の音楽である。

トリオ・メディアエヴァルは2014年の『Aquilonis』でも、12世紀イタリアのラウデを2曲収録している。

Fammi cantar l'amor

第3章 ヒリアード・アンサンブル――ペロティヌスという輪郭

この匿名性と対をなすのが、ヒリアード・アンサンブルが1989年にECMから出した『Perotin』である。男声4人の編成は、ペロティヌスが切り拓いた4声オルガヌム(「Viderunt omnes」「Sederunt principes」)の立体感と迫力を体現する。ゴシック建築の垂直性が視覚で神の威光を表したなら、男声4声の重層的な響きはそれを聴覚で体現する「音による建築」だった。当時の典礼が男声でしか歌われなかった制約の中で、どこまでの荘厳さを引き出せるかへの挑戦でもあった。

Viderunt omnes

Sederunt principes

興味深いのは、この『Perotin』もまた、確実なペロティヌス作と、作者不詳(Anonymus)とを誠実に分けてクレジットしている点だ。「最初の記名された作曲家」の輪郭もまた、記名と推定と匿名性が入り混じった不確かな海の上にしか立っていない。権威を再演するヒリアードの録音は、根もとでトリオ・メディアエヴァルの匿名の声と地続きである。

結論 ふたつの12世紀と、いまの孤独

確立された作曲家の権威を響かせる録音と、記録に残らなかった声を初めてすくい上げる録音。性格の異なる二枚が、同じECMのカタログに並んでいるのは偶然ではないのかもしれない。

両者に共通するのは、主旋律と伴奏という固定された階層も、結末への強い重力も持たないことだ。それに加えて、もう二つの共通点が現代のアンビエントとの間にある。一つは空間そのもの。石造りの大聖堂や修道院で歌われた声は、長い残響を伴って反復し、溶け合う。これは現代のアンビエントがリバーブによって意図的に作り出す、あの広がりのある音場と地続きだ。もう一つは声部の現れ方。オルガヌムの上声部は、予告なく一つの声から立ち上がり、また音もなく消えていく。明確な始まりと終わりを持つメロディというより、空間の中にふと立ち現れ、また沈んでいく音のふるまいに近い。だから18-19世紀の「クラシック」が育んだ喜怒哀楽の物語に疲れた耳に、12世紀の声はかえって新しく響く。

実際、トリオ・メディアエヴァルを流しながら本を読んでいたとき、声は一度も読書の邪魔をしなかった。むしろ部屋の空気そのものに溶け込んで、ふと顔を上げて耳を澄ませたときだけ、その響きの精緻さに気づく。あれはまぎれもなく、アンビエントを聴く時の感覚だった。

ヘッドホンをして、部屋の明かりを消してみる。800年前の石造りの空間に響いていた残響と、現代の私たちの孤独は、音もなく立ち上がり、また消えていく声によって繋がっている。

参考書籍

皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』(講談社学術文庫)

岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』(中公新書)